『春画のからくり』(田中優子 ちくま文庫)

その昔、大分県日田市を旅したときに、春画を見せてもらったことがある。
江戸時代、天領であった日田は大いに栄え、町人文化が花開いた。
そのころに集められた古式ゆかしい雛人形は、旧家に多く保存されており、毎春の公開のころには観光客を集めている。

町の観光協会が作っている観光マップを片手に雛人形を訪ね歩く中で、声をかけられた。
「いいもの見せてやるけん」

そこは、駄菓子屋だったか文房具屋だったか、子どもを相手にするような古く小さな店で、この時期だけ飾られているのだろうおひな様も、町の中ではそれほど豪奢なものではなかったように記憶している。
しかし、ささやかであるからこそ何となくひかれるお内裏様とお姫様を、熱心に(例によってオタク的に)見入っていたのだが、このように少々奇特な人間が見物に現れると、店番のおばちゃんはニヒヒ、という感じで、例年、手招きしているのだろう。

そのとき店内に観光客は私たちだけで、私と連れはおばちゃんに導かれるまま、長いのれんのようなものをくぐった場所に誘われ、するとこれまた古く年代モノらしい大きな机に、でーん!とそれが置かれていたのだった。

ゆうに幅1mは超えるかという、画用紙というには大きすぎる紙が分厚く重ね置かれており、表紙には

春画:18歳未満は閲覧禁止!!』

と、でかでかと書いてある。

んおおお!
春画というものの存在は、歴史オタクとしては当然、既に知っていたが、もちろんナマで見るのは初めて。
予想外の展開に度肝を抜かれつつも、もちろん好奇心(という名のスケベ心・・・?)に胸を高鳴らせ、禁断の表紙をめくる。

す、すごい。すごすぎる。
大画面に描かれた男女の絡み。
その迫力といったら、フルハイビジョンで見るAVなんてメじゃないほどの生々しさである。
美術館で古き名画を見るのとも全然違う。なんせ、この手でページをめくっていくのだ。私と大・春画との距離はわずか数10センチ。

当時22歳だった私、百戦錬磨(?)のおばちゃんの前で、それらを凝視するほどの図太さはまだ持ち得ておらず(いま思うともったいない)、20枚以上はあったと思われるその絵の数々に、いちいち「んのっ」「ひょえー」「すんごい・・・」みたいに、小さな声と貧弱な語彙でもってのみ感想を述べながら、手早く見て行った。

衝撃的すぎて、あんまり詳細に覚えてないの。ほんと、もったいない。
とにかく、巨大な紙に、巨大な男女のふくよかな肉体と、その中でも完全に縮尺を間違えているとしか思えない、巨大な男女の性器が、極彩色で描かれていた、という印象。

私の驚きと羞恥の反応に、至極、満足げな様子でおばちゃんは、(この時点で、既に彼女は『やり手婆ァ』にしか見えなくなっていた・・・)ものものしく次のように解説してくれた。

「これ江戸時代に描かれたものなんだけどね、春画っていうのはね、
 家内安全や夫婦和合の縁起物として、その家の家宝として、
 代々、そりゃあ大事に守られてきたもんなんだよ。」

ほ、ほほぉー、なるほどぉ・・・。
としか言えなかった、かわいかったアタシ笑
「貴重なものを見せていただいてありがとうございました」なんて、
この上なく正しいような、しかし、エロ画像を見た後に、これほど間の抜けたリアクションもあろうか?
という丁寧な言辞をなんとかかんとか述べるので精一杯。
清冽で可愛らしいお雛様を見に来たのに、なぜ、こんなに脳天ぶち抜かれるような体験を????
という混乱は、その場を立ち去ったのちもしばらく続いた。


記憶を辿って書いていたら、思わずコーフンして(?)えらく前置きが長くなってしまったが、さて、この本である。

春画のからくり (ちくま文庫)

春画のからくり (ちくま文庫)

このキョーレツな体験のあとも、私の歴史全般への傾倒は続き、その中で、喜田川歌麿菱川師宣葛飾北斎といった巨匠を始め、当時の浮世絵師はほとんど全員といっていいほど、春画を描いていたことが判明。
しかも1枚や2枚じゃない。ひとりひとり、画集やシリーズが出来上がるほどの多作ぶりだ。

その理由として、当時の絵師は「紀伊国屋」みたいな版元の発注を受けて絵を製作しており、豪商たる版元は多数のクライアントを抱えていたわけで、現代の受注者と同様、それらの依頼には応えざるを得なかったのだ、と私は思っていた。

つまりは、富嶽三十六景やなんかで名声を得ても、それだけで食べていくことは難しく、いわゆる「生活者として、あるいは労働者として」の仕事が春画だった、ということ。
いつの世にもエロはウケる。

その解釈も大筋で間違ってはいないと思うのだけれど、この本を読んで、春画に対する新たな理解が、ぱーっと目の前にひらけた(こんなことを嬉々として書き連ねている自分もどうかと思うが)。

食うために、あるいはクライアントの要求のためにしぶしぶ始められたことだったかもしれないにしろ、名のある絵師たちは、春画に己の芸術家としての魂をこめて描いていたのだ、と、読後の今、きっぱり断言する。
いや・・・もしかしたら、やっぱり彼らも、嬉々として描いていたのかも。巨匠といえど、人の子、人の親。
エロに興味がないわけがなかろう。

そもそもは、嫁入りする娘のために夫婦生活のなんたるかを教えるような、性教育の教科書であったり、男女の体のしくみを解き明かす医学書であったり、というのが春画の起源だったらしいのは、以前から知っていた。
で、あれば、当然の如く、その図は男女ともに裸体なのである。

しかし、春画文化の発達の過程を解き明かしていくと、あるころから、組み合う男女は着物をまとうようになる。

男子の場合、武家であれば合戦に赴く直前、鎧兜をびっしり身につけていたり、江戸の町人であれば、当時、粋とされた地味な紺絣や市松模様の着物であったり、不謹慎なことに、法衣をまとった坊さんもいる。
女子であれば、若い娘は華やかな着物を着ていたり、後家さんが地味な黒衣を着ていたり。

もちろん、春画であるからには当然、局所はあらわになっているのである。

著者が春画の研究を初めて発表したという『エロティックな布』という章で述べられているとおり、『源氏物語』に代表されるような平安のころから、日本の文学にテキスタイルの描写は不可欠であり、その人となりや物語世界を表現するために、これでもか、とばかりに「身にまとうもの」が克明にあらわされてきた。

春画という「画」の世界でもその系譜は受け継がれ、質感、量感ともに豊かな着物や、布々が形作る波打つヒダ、緋色の腰巻(当時の下着ね)によって、エロティックな雰囲気がかもし出され、その中にそっと息づく巨大な(笑)男女性器が、より生々しく、淫靡かつ神々しいものとして見る人の目に映るという。

ただおおっぴらに「見せる」のではなく、相当部分を「隠す」中で表現されるというのが日本の春画の特徴で、着物だけでなく、あるときには蚊帳、格子、几帳といった家具で隠されているものも多くあり、喜田川歌麿は「水面」で隠すという、巨匠らしい高等テクニックも用いている。(ちなみに、このとき女を犯しているのはカッパだ。)

「パンチラ」に代表されるチラ見をありがたがる性質が、日本独自のものなのか、人類共通のものなのかはちょっと存じ上げないが、このような性癖はお江戸のころから既に確立されきっていたのだろう。
オリンピックを開催することにこだわり続ける現都知事が、『太陽の季節』で鮮烈な作家デビューを飾ったのは50年も前で、文学少女(少女じゃない)を名乗る割に、未読の私だが、その作中で、シンタロー(あ、名前出しちゃった)が投影された主人公が、障子に己のものをブッ挿す、という名シーンがあることだけは熟知している。(なぜ・・・。)
戦後間もなくの文壇で、大いなる賛否両論を巻き起こしたらしいが、そんな図柄は、実は既に江戸時代、春画という世界で、ひとめ見るとわかる「画」として表現されていたのである。

文庫本なので小さなモノクロであるのは残念だが(笑)、作中には多くの春画が収録されており、そのひとつひとつについて懇切丁寧に解説がほどこされていて、感心するやら、むずかゆいやら。
250ページほどの薄い本だが、めくるめく春画の世界に誘われる、名著である。

いずれまた、「おひなまつり」ごろの日田にてあのオバチャンの店を再訪し、今度は目をらんらんと輝かせ、市井に残る春画を目に焼きつけたいものだ。