マイケル、ゴッド ブレス ユー!!

昨日書いた、1993グラミー賞授賞式でのマイケル・ジャクソンの映像、
you tubeを探したら、あった!
しかも、すんごい高画質!!
なつかしすぎる・・・(涙)
記憶を元に書いた昨日の記事と実際とは、ジャネットが出てくる順番などが違ってた。

彼が死んだというニュースを最初にニュースを知ったとき、なんだか驚けなかった。
「ああ、とうとうこの日が」という気持ちは、
これまでのマイケルの報道に接してきた人たちの多くがもったんじゃないか?

死去を報じるテレビで繰り返し流れる懐かしい「スリラー」のビデオを見てるうちに、
ぽとぽとと雫がコップに溜まっていくみたいに、悲しみがこみあげてきた。

'78年生まれの私はスリラー当時のことは覚えてないけど
あのとき、彼の歌とダンスは、
『こんなことをできる肉体があるのか!』
って、世界中を驚かせ、魅了し、熱狂させた。
まさに天賦の才能をもって生まれてきたマイケル。

10歳になるかならないかのころからスーパースターとして世界中の注目を浴び、
子どもらしい子ども時代を送れなかった彼にとって、
音楽は心のよりどころであり、
聴衆を喜ばせることで、自分の存在価値を認めてきたのだろう。

そうやって彼は、神さまからのギフトのような自分の肉体を磨くことに腐心した。
撮影やコンサートで怪我をしたり、病気を負ったりするたびに、
たくさんの手術や治療が必要だった。
中傷やコンプレックスを克服したりするために、あらゆることをやった。
その中で、整形手術を施したり、強すぎる鎮痛薬に頼ったりもしたんだろう。

そうやって、長い時間をかけて彼は肉体を磨き続けたが、
結果的にそれが、彼の体を蝕み、あまりにも早く衰えさせてしまった。
それは、なんて皮肉で悲しいことだろう。

この原理は、多くのスターにいえることではあるんだよね。

スポーツのプロ選手なんか見てても、みんな怪我に悩まされる。
記憶に新しいところでは、清原にしろ桑田にしろ、新庄にしろ、高橋尚子にしろ、
一般生活を送っていたら考えられないような怪我や大手術を若いうちに経験している。
たぐいまれな肉体をもって、高いパフォーマンスをしようとする人たちの宿命。

世界中の目にさらされながら、精神の安定を保つことがどんなに難しいかは、
ハリウッドのセレブやロック界のスターを始め、数々の先人も立証している。
クスリ漬けになって破滅していった人、宗教を支えとして生きていく人・・・。
有名になった子役が、そのキャリアゆえに、大人になる前につぶれていっちゃう例も多くある。

ひとつの成功は、ややもすると、それと同じだけか、あるいはもっと大きな挫折に結びつく。
人の目を集めるってのは、栄光と同じか、それ以上の誹謗中傷にさらされることでもある。
それを免れるのが、どんなに難しいことなのか・・・。

マイケルは40年間、世界のスターであり続けた。
ショービジネスの世界で、史上、類を見ないほどの成功を収めた彼が、
その代償として払ったものは、これまた史上最大だった、ってことなんだろう。


・・・なーんて書いてみたんだけど、
そうやって分析することで、自分の中でマイケルにケリをつけることができないんだよね。

大好きだったから。
正確に言うと、大好きだったのに、彼の死を知ったとき、妙に冷静だったから。

私は多感な10代のころに、マイケルが大好きだった。
でも、結局、私も、スーパースターを「世間のこっちがわ」で見てた。

もともとそんなに興味がなかったら、
すばらしい才能をもった、でも不幸な面もあった人だった。って片付けられるし、
逆に妄信的なまでにスキスキだったら、わんわん泣いたり、マスコミを責めたりできるんだろうけどさ。

21世紀になってから、マイケルは長い裁判に巻き込まれたことを始め、
(詳細を知らない人が多いと思うけど、
証言の多くは偽証であったし、
原告の少年の母親は詐欺罪で有罪判決を受けている)
彼にまつわる報道のほとんどがゴシップだった。
一般人には理解しがたい「奇行」の類も、数々、伝えられた。

人々の好奇心に訴える、悪意ある報道をすべて鵜呑みにするわけじゃなくても、
いつのまにか私も、「そっち」に歩調を合わせてるところがあった。

私の世代は、スリラーのころももBADのころもまだ子どもで、
ゴシップばかりがばらまかれてからの記憶のほうが鮮明だったりするので、
マイケル大好きー!て人は、周りでは、ほとんどお目にかかれない。
そういうのもあって、マイケルのことが話題にのぼっても、
空気読んで、「マイケル・・・ううむ、あれは、奇人じゃからのう。」なんて態度とって、
そのうちに、なんかほんとに、自分の中で、そういう扱いになってた面がある。
大衆心理っていうの? 長いものに巻かれてたっていうの?

今回のことで、you tubeでマイケルの動画をたくさん見た。
ほとんどが、夢中だった10代の頃に見たことがあるものだった。
ネットもない時代、日本に住んでいながら得られる情報は、ほとんどすべて得ていたのだ。
そのころから、好きなものに対して突き進んでいくオタク魂をもってたから・・・。

「懐かしい!」
「かっこいい!」
「なんていい歌なんだよー!」
興奮したり、しみじみしたりしながら、
「こんなに好きだったのに、どうして忘れていられたんだろう?」
て思った。

トライセラトップスの和田くんのブログを見たときもそう思った。
こんなに堂々と、「マイケルをずっと好きだった」って語れるなんて、すごいと思った。
ある意味、うらやましかった。その一途さが。

考えてみれば、忘却は、あたりまえのことではある。
誰だって、自分の人生の、「今」を生きてるんだもん。
遠くの親戚より、近くの恋人(?)。
そのときどきで、私の人生に大事なこと、最重要課題はたくさんあるのだ。

いってみれば、マイケルが好きだったといっても、
世界のファンの多くは、その程度の熱心さだったんだろう。
そのことに罪悪感をもったり、責任を感じたりするのも、むしろ何か違う気はする。

でも、マイケルにとっては、一生、音楽をやっていくしかなくて、
というか、「マイケル・ジャクソン」としての人生しかなくて、
新作を発表しなくても、ツアーに出なくても、
自分が望もうと望まざるとにかかわらず、
もはや、どんな些細な話題や、根も葉もない噂でも、
世界中から注目され続けて、それから逃れることはできなかったのだ。

ふつうの人々だって、性格や生き方は、環境によって作られるところが大きい。

度重なる整形手術や、強すぎる鎮痛薬への依存。
私たちには奇妙に映る行動、子どもに対する偏執的な愛情。
マイケルがおかれた環境によるものだと思う。

環境というのは、自分で選べる部分と、そうでない部分があって、
その境界線を他人が引くことはできない。
「もっと違う道、より良い道もあったんだよ」って、他人が言うことはできない。
まして、家族でも友だちでもない「スター」に対して、
しょせん「その程度」の関心しかない私たちが、
「ここまではOKだし、ここは仕方ないけど、あれはアンタ、おかしかったよ。」
って言うことがどうしてできるだろう?

逆に、
「かわいそうな人だった」
「不幸な人生だった」
「人間らしい幸せを味わえない生涯だった」

って決めつけるようなこともできない。それは不遜だと思う。

想像を絶するような栄光と、それに伴う孤独があったんだろうな。

ってことを、私はぼんやりと想像するだけ。
彼の人生の評価はしたくない。

そうすると、結局、「大好きだった」って気持ちだけが残る。
彼の、輝かしい歌とダンスのパフォーマンスを見て、
「ワーォ!」「フーゥゥ!」て口笛吹いて昂揚して、
彼はもういないんだな、て切ない気分になる。
人の一生の複雑さについて、ぼんやり、答えの出ないことを考える。
つまるところ、それだけしかできないし、でもそれだけがファンにできることかな、って思う。

死の底へすべり落ちていくとき、マイケルは苦しかっただろうか。
もしかしたら、
なんとか大聖堂で天使が迎えにきたネロみたいに、幸せに天に昇っていったのか。
彼を縛り付けた地上の重力から、やっと解放されて。

もう8年もネットで書いてる自分の日記を検索しても、
マイケルのこと書いてるのは、2・3の記事しかなかった。
亡くなってから評価するようなこと書くなんて、いかにもな自分を嫌悪してもいる。

今夜も発泡酒飲みながら、ふらふらで殴り書きだー!
考えは尽きないけど、もう明日のお弁当のおかずも作ったし洗濯もした、
これからまた、飲み会の夫が帰ってくるまで、you tubeとマイケルのCDを堪能するよ。
God bless you, Michael!
どうか安らかに。