■「いわさきちひろとアジアの絵本画家たち」展

今日は開いてました、アジア美術館。この美術館が入っている博多リバレイン、けっこう好きなんですよね。買うものは何にもありゃしないといっていいけど(リッチなお店ばっかりなので・・・)。1年に2,3回は行きたい場所です。

美術展は、予想比200%増くらいに感動した。前半部分は、韓国や中国、そして我が日本など、いろんな国の絵本の画の紹介。この展覧会のすばらしいところは、展示されている絵のすべての絵本を置いていて、自由に見られるようになっているんですね。もちろん、次から次に読んでいきましたよ、子どもに混じって。20冊くらい読んだかな・・・。

いやーほんとに、絵本って、奥が深いね。示唆に富みまくっている。そしてバラエティにも富みまくっている。いろんな絵。コミカルなもの、格調高いもの、描き込んでいるもの、シンプルなもの。そしていろんなお話。痛快なもの、悲しいもの、抽象的なもの、教訓的なもの、身近なもの、不思議なもの、不条理なもの。そのすべてが、子どもたちが成長していくにあたって必要なものなんだと思った。人生には本当にいろんな場面があるから。いつか私に子どもができたら、湯水のように絵本を与えるんだろうなーと思った。ま、えてして、こういう親の子どもって、本を好きにならなかったりするんやろうね笑

中でも、印象に残ったのは、韓国の作家が書いた、小さな男の子が停車場でお母さんを待ち続ける絵本と、中国の作家が書いた、三国志諸葛孔明のお利口さんさが光るエピソードを描いた『十万本の矢』そして、日本の名作、『スーホの白い馬』です。確か小学校の国語の教科書に載っていたと思うんですが、お話を忘れていたので・・・。

あ、それから和田誠さんの絵本もありましたね。猫が主人公の話なんだけど、飼い主のお母さんがすごくチャーミングで愉快な性格でね。最後のページに初めて描かれる彼女の顔は・・・もうおわかりになりましたね。そうです。平野レミさんにそっくりの女性が、ニッコリ笑って猫ちゃん(名前はシジミ、それも彼女の命名)を抱き上げていたのです。

そして後半はちひろさんの絵がたっぷり見られます。もうね、最初の数枚で息をのんだね。実物の迫力ってすごいね、一気にくるもんだねー。あの美しさは、私の拙い言語能力ではちょっと表現できない。色がきれいとか子どもがかわいいとか1枚の絵の中での調和がすごいとか、そういうのもあるんだけど、とにかく何というか、品があるんだよね、この人の絵。知ってる絵もたくさんありました。絵本も何冊も置いてあったよ。「人魚姫」ほんとに美しいです。必見です。子どものころは怖くて開けなかった絵本『戦火の中の子どもたち』もみました。なんかもう、泣きたくなるくらいに感動してた。実際、ちょっと泣いたもんな、家族の写真とか展示してあるコーナーで。

横山大観展に行ったときもそうでしたが、ひとりの作家の絵をたくさん見て感動すると、作品だけじゃなくて、俄然、描いた人そのものの人生に興味が出てくるのがわたくしです。出口の先で売っていた関連本の中から、3冊も選んで買ってしまいました・・・・。ちひろさんの夫が書いた本、ちひろさんの息子さんが書いた本、そして、ちひろさんの息子さんのお嫁さんが書いた本です(息子さん夫婦は、安曇野に「ちひろ美術館」を作ったんです)しかし私も好きやねー、ふっ。本だけじゃなくて、ポストカードも買いまくりましたよ(ええ、ミーハーですよ、何とでも言ってくださいよ、、、)。このブログをお読みの方にも送りつけることと思います。どれも綺麗な絵だよ〜。

■ぜひ、お読みください。
実は、富山在住のikukoさんという女性が書いているブログをずっと前から愛読してるんですが、現地では去年の秋にこの展覧会が行われていたんですね。そこを訪れた際の記事で、ちひろさんの文章をikukoさんが引用していました。もうすごく感動しちゃってパソコンの前で涙ぐんだものでした。その文章、今日の展覧会でも飾られていました。絵をたくさん見た後に読むと、いっそう心に響くものがありました。本当にいい文章なんです。

続きに引用します。ちょっと長いけど、クリックして、ぜひ読んでみてください。きっと、心励まされるものがあると思います。私もこんなふうに生きたい。

「大人になること」 いわさきちひろ

人は若かったときのことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったことを何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分のことをふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです。
 
といってもなにも私が特別不幸な時代を送っていたというわけではありません。戦争時代のことは別として、私は一見、幸せそうな普通の暮らしをしていました。好きな絵を習ったり、音楽をたのしんだり、スポーツをやったりしてよく遊んでいました。
 
けれど生活をささえている両親の苦労はさほどわからず、なんでも単純に考え、簡単に処理し、人に失礼をしても気づかず、なにごとにも不和雷同をしていました。思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました。
 
ですから、いくら私の好きなももいろの洋服が似あったとしても、リボンのきれいなボンネットの帽子をかわいくかぶれたとしても、そんなころに私はもどりたくはないのです。ましてあのころの、あんな下手な絵しか描けない自分にもどってしまったとしたら、これはまさに自殺ものです。

もちろんいまの私がもうりっぱになってしまっているといっているのではありません。だけどあのころよりはましになっていると思っています。そのまだましになったといえるようになるまで、私は20年以上も地味な苦労をしたのです。失敗をかさね、冷汗をかいて、少しずつ、少しずつものがわかりかけているのです。なんで昔にもどれましょう。

少年老いやすく学成りがたしとか。老いても学は成らないかもしれません。でも自分のやりかけたことを一歩ずつたゆみなく進んでいくのが、不思議なことだけれどこの世の生き甲斐なのです。若かったころ、たのしく遊んでいながら、ふと空しさが心をよぎっていくことがありました。親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。

いま私はちょうど逆の立場になって、私の若いときによくにた欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。

これはきっと私が自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることだと思います。