Nスペ「不登校44万人の衝撃」

こないだ、ヒマをもてあましてる息子8才に算数の問題を出したらかなり格闘したのち正解にこぎつけたので、「すごいな。力があるね。難しい問題を解き続けるためには3つの力が要るとよ。知ってる?」と聞くと(←別に何かのメソッドとかじゃないです。その場の思いつきでテキトーに言っただけですw)、「うーん…」と考えたあげく、

「あきらめない心」

と答えられて軽くショックを受けた私です。

息子は良くも悪くもメタ認知力が高めで、学校についても先生についても批評的な目線をもってるのがややこしくもあり頼もしくもある・・・と思っている。

それが、「あきらめない心」って! 
本の学校教育による洗脳が、ちゃくちゃくと進んどるやないか~!

いろんなことを「心の問題」に帰着させようとするのは、学校(=日本社会)の悪弊のひとつじゃなかろーか。

思いやりの心とか、感謝の心とか、あきらめない心とか。
学校が「心」を持ち出すときは、「こうあるべき」という押しつけが含まれていることが多い気がするのだ。

「どう思いますか?」
と学校が子どもたちに尋ねるとき、子どもたちの気持ちではなく、実は「模範解答」を求めている。子どもたちはそれを敏感に感じ取っている。

空気を読んで「正解」に辿りつける子は、いつしか「正解」を「自分の心」だと思い込んで、主体性を後退させていく。
「心」を押しつけられることに違和感を持つ子、抵抗する子は、学校という場所(それは大人の社会のミニチュア版でもある)になじめなくなり、生きづらさを抱えていく。

…と、これは極論で、もちろん現場ですごくがんばってくれている先生たちがいるのもわかってるけど、学校や親や子供たちを見てて、そういう傾向ってあるんじゃないかと思う…。

「あ、あのね…。あきらめない心も大事やけど、人生、心だけではどうしようもないことがいろいろあるけん」
と息子には言ったけど、わかっただろうか? 折に触れて言わないかんな…

前置きが長くなりすぎました。
Nスペ「不登校44万人の衝撃」。
44万人とは、「隠れ不登校」まで含めると、中学生の8人に1人が該当するという数字だそうです。

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哲学者、教育者である苫野一徳さんが「学校のシステムに限界がきている」として、問題点を大きく3つにまとめていました。

●細かなルール
●学力向上至上主義
●教師の多忙化

「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」
そんな、(限界がきている)日本の平均的教育とは全く異なるアプローチの「イエナプラン教育」の学校を、広島の教育委員会のメンバーが視察に行く様子が放送されていました。

それはオランダの小学校で、異年齢の子どもたちがひとつの教室で思い思いに勉強しています。
それぞれにフィットするやり方が尊重されているので、教室の隅で立ったまま勉強したり、バランスボールでバウンドしながら勉強してる子もいます。

視察後、夕食を食べながら、教育委員会のメンバーが激論を交わすシーンが印象的でした。

「立ったままとか、バランスボールとか、あんなふうに勉強する姿が本当にいいんですかね?」
「好き勝手する子が出てこないですか?」
「そこで引っかかる人が多いだろうから、きっちり議論しとかなきゃいけない」
「そういうこと(好き勝手する子が出てくること)につまづいて、先人たちは、学習規律を作ってきたのでは」
「それ(現行の規律)で合ってる子もいるけど、合わない子がどんどん増えてるのが不登校だと思う。子どもにボイコットされてるんですよ」
「(規律をゆるめると?)学校制度そのものが崩れるじゃないですか」
「学校を守るために子どもの教育や学校があるわけじゃないですよ。子どもに必要だから学校があるんですよ」

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とある中学校、「ふれあいルーム」と呼ばれる、校内の一室。
登下校時間も、勉強内容も、子どもたちが自分で決めていい。
不登校になっていた子たちの中には、ここなら通えるという子もいる。
(もちろん、いろんな経緯で、また休みがちになる子もいる。)

文字の認識・文章の理解が困難でクラスがつらくなったりゅうせい君。
ふれあいルームで自分のペースを尊重されるうちに、他の子に優しさを見せるようになった。

きっとこれまでは日本の制度に従って、同質的な教育に従事してきただろう、50代と思しき男性教諭が、ふれあいルームで子どもたちの様子・成長を間近に見るうちに、
「ひとりひとりの個性や実情に寄り添うことの大切さを学んだ」
と語る姿に希望を感じました。

子どもが変わったのではない、社会が変わったのだと思う。
子どもを導いたり変えるのではなく、まず大人が理解し変わらなきゃいけないんだろうと思います。