睦月の五 / 私たちはこんなに美しいのに

●1月某日: 週末のプレゼンの資料や台本を準備している。「ママじゃな」の記事を仕上げたり、勤勉(自分で言う)。近所の八百屋さん、長い正月休みだな~って思ったらお店を閉めていた。ちょっとショック・・・・。イムズの建替が発表される。サクのスイミング。年末に忘れていた水着が発見される!うれしい~! 夜ごはんは、さば塩焼き、白菜と厚揚げのみそ汁など。

「ママじゃな」読み返してたら、特別編 『ヌードという表現』 の取材のあと書いた【編集後記】をもう一度掲載したくなって、facebookでシェア。

この記事、ひそかに読まれ続けています。まだ見てない方は、よかったら、ぜひ! ヌードのページもぜひ。一言でもご感想をいただけたら、もっとうれしいです。
ポートレート・インタビュー記事はこちらです!

mamajanaiwatashi.hatenablog.com

取材に立ち会ってくれた友人サニー安田氏が書いてくれた裏話(?)。
https://mylifeismine.net/archives/15602

 

●編集後記 筆:イノウエエミ

【ママじゃな】には、「自分を大事に」「堂々とすることの気持ちよさ」
そんなメッセージを込めていますが、それは簡単なことじゃないとも痛感しています。

若い子。綺麗な人。スタイルの良さ。
子どもがいるかどうか。立派な仕事をしているか? 
素敵な趣味があったり、しゃれた家に住んでいるか? 
悪目立ちせず皆と同じようにできているか?
どうしても、そんなふうに価値判断をしたり、劣等感を覚えたりしてしまうのです。

固定観念を刷り込まれていることに気づく余裕もなく、「決められたものさし」に合わせることに一生懸命な忙しい毎日。それが私たちの現実ではないでしょうか。

でも、圭子さんは目をそらさず、あきらめず、劣等感や違和感と向き合い続けてきた。ヌードになったのは偶然の成り行きのようで、必然だったのだろうと思います。

「裸になって、初めて自分を大事にできた」
逆説的だけれど、その言葉にめちゃくちゃ納得したのです。

裸になることで、すべての固定観念を、そこからくる劣等感を、脱ぎ捨てられたのだと思います。
そうでもしなければ自分を愛することができない。それが、女性を取り巻く現実のひとつだと思います。(フェミニストと言わば言え)

圭子さんの裸の写真は、「脱いだら誰でも美しいんじゃないか?」という気分にさせてくれます。あなたでも、私でも。

見せるために美しいのではなく、私たちは、こんなにも勝手に美しい。崩れた体を綺麗な洋服で隠しているのではなく、こんなにも美しいから、普段は隠している。私たちは、こんなにも美しいという秘密をもっている。
そう感じるのです。

既にずいぶん長くなってますが、インタビュー前、facebookに書いた文章も載せておきます。
「自分、政治、アート(文化)」の3つを分かち難く考えています。

子育て世代。政治と同じくらいアートが遠くなってる気がする。両方は実は同じ現象で、どちらも同時に手繰り寄せて取り戻していかなきゃいけないような気がするんだよね。

ちょっとうまく書けないのだけど、日本の学校で教育を受け、日本の家庭・世の中で育っていると、
「自由に対する恐怖や忌避感」
みたいな思考をすりこまれるのかな、と思うことがある。感覚を鈍くしないと生きにくいような。

でもそれってすごく寂しいし怖いことです。

良いか悪いか、安全かそうでないかではなく、後ろ指さされないかを恐れることもなく、ただ1枚の絵や写真、1つの音楽や詩を前に、どう感じたかを口にする・・・
いえ、言葉にしなくても、自分が感じたことを抱きしめる。

そんなことを大事にしていきたいのです。
自分が感じたことを大切にできなければ、人の感じ方も大切にはできません。