『茗荷谷の猫』 木内 昇

6月に、福岡市の男女共同参画イベントで講演を聞く機会があった、直木賞作家・木内昇さんの短編小説集。

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茗荷谷の猫 (文春文庫)

幕末から昭和にかけ、各々の生を燃焼させた名もなき人々の痕跡をすくう名篇9作。

と、裏表紙の紹介にある。読後にあらためて見返すと、「燃焼」という語に少し引っかかりを覚える。「完全燃焼(あるいは不完全燃焼)」といわれるように、その言葉には「達成」の意が含まれているように感じるからだ。

この作品の主人公たちは、何事かを達成したようには思えない。第一章、丹精のすえ染井吉野を作った植木職人の徳造でさえ、代償として女房・お慶を喪ったことのほうが強い印象を残す。

喜びにせよ悲しみにせよ、カタルシスのない作品集である。そこに、この作者の文学性がある。文学的良心とでもいおうか。

読後感を一言で表せる作品はない。すわりのいいところに着地するわけでもない。悲しみや、理不尽や、怒りや、不可解、滑稽さ、いたいけさ・・・いろいろなものが、淡く、ときおり激しく同居する。バッテリーが切れたかのように、ふいにパッと途切れる幕切れ。それが、「生を切り取る」ということなのだと思う。私たちの生は単純化できない。結論もない。

それぞれの作品は、茗荷谷、浅草、千駄ヶ谷、本郷、品川など東京の狭い範囲が舞台になっている。江戸後期を舞台にした一作目から、御一新のころ、大正、昭和初期と時代は一作ずつ進み、やがて『庄助さん』では青年が徴兵され、続く『ぽけっとの、深く』では復員兵や戦災孤児の話になり、最後に同作の主人公が数年後(十数年後?)に所帯を持ったころの『スペインタイルの家』でこの小説集は締められる。

時代とともに、風景も生活も様変わりしてゆき、それは個人の人生にも大きく影響する。が、人の生が単純化できないこと、結論などないことに、変わりはない。そのときどきのさまざまな感情、特に悲しみや理不尽や怒り、不可解といった負の側面をも飲みこむしかないまま、人は生きて、必ず一生を終える。進んでいく時代が、「前の作品の登場人物はもういない」ということを伝えている。

そのような生を「燃焼」というのかもしれないと、ふと思った。ただただ、命ある限り生きるしかない。そして必ずくる終わりを迎えたあと、その人の生は「燃焼した」といっていいのではないか?と。私は、こういう文学は、派手さがないだけに、実は多くの人の人生に寄り添い、小さな救いを与えることができると思っている。