水無月の十二 / プレゼン勉強会にて、家族(疑似家族)、「女性とセックス」そして「人生と物語」を考える

●6月某日: (facebookより)

ワークライフバランスプレゼン勉強会に参加。テーマは、

「『家族』にあらざる家族関係から見る『家族』」
「いわゆる血縁家族ではない関係。我々がその関係を示す語彙を持っていない関係を、どう解釈したらいいだろうか?」

大学の人文科学系のゼミのような問題提起ですね。

考察のツールとして森山さんが示したのは、
・『ショムニ』の作者・安田弘之のマンガ作品『ちひろ』『ちひろさん』
是枝裕和監督の『万引き家族

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家庭や地域、会社といった共同体からこぼれ落ちている人々。
まっとうとされる社会規範になじめない、適応できない人々。
生きづらさを感じている人々。

そんな人たちがとり結ぶいわゆる「疑似家族」のような関係性。
配偶者や子供のようなリアルな「血縁家族」を営んでいる参加者たちに、「こういう関係、どう感じますか?」と森山さんは問いかけました。すると、みなさん、ご自分の家族のケースをいろいろとお話になり・・・。

こんなにもたくさんの個人情報、しかも、かなりナイーブな部分に踏み込んだ発言が交わされるのは、この勉強会でも珍しいケースだったのでは?

それで、私は思いました。これこそが、「物語の力」だと。
とあるマンガや映画の内容を通じて、個人の感情や記憶が刺激され、共感し、あるいは比較対照し客観視し、時には反発したりもする。認知する。心動かされる。

「こうあるべき」という規範ではなく「私はこうだった」「こう思う、感じる」という「個人」を引き出す。それが、是枝監督のような人が志向する「小さな物語」です。

人様の趣味嗜好にケチをつけるようで野暮かつ傲慢な話なので、なかなか口にできませんが、私は子どもを産んでから、「物語を欲さない人がこんなにもたくさんいる」ということについてぼんやりと考え続けています。

私は政治や教育について関心があるし、日ごろから割とそういう発言・行動もしていますが同時に、地域やNPOやボランティア、カウンセラーのような善意の集団(人)まで含めて、そういった社会システムでは救えない(掬えない)存在が必ずあると思っています。

それは何も、特別な境遇の人だけではなく、誰の人生にも、「表の」「明るい」「正しい」ものでは割り切れない部分があって、それをすくいあげ、汲み取り、慰め、励まし、時には、自分に代わって暴言を吐いてくれたり、落ちるとこまで落ちてくれる

そういうのが物語の力で、だから人は、古今東西、地位身分の上下にかかわらず、物語を欲し、伝承し続けてきたのだろうと。
周縁の物語こそ、物語の王道だ。と思っています。だから是枝さんの作品の真摯さに打たれるんですよね。
「物語」はもっと広義に「アート」と捉えてもいいと思います。

森山さんはマンガ「ちひろ」について

「生きづらさを感じる価値観に対して、“こういう価値観もあるよ” と示す物語」

と紹介しましたが、それは、まさにそのまま、物語というものが果たせる役割でもある。

しかし、現代日本のように、これだけ次々と映画が封切られ、出版物が並び、ドラマがつくられ、国民の識字率は高く、レンタルや図書館もある。という環境でも、物語にほとんどアクセスしない人は多くて、それは「物語(アート)を必要としない人が多い」わけではなく、うーん・・・・なんというのでしょう・・・

潜在的には、物語(アート)に救われる(掬われる)人々がたくさんいるのに、届いていない。そんな印象があるのです。

森山さんのプレゼン後、堰を切ったようにみなさんがいろんな個人的経験を語られるのを聞いて、「やっぱり、物語は、届きさえすれば、すごく機能するんだな」と感じました。物語の力を感じました。

それからもう1つ。
ディスカッションでも、その後のランチ会でも、話そうかなと思いつつ、まあ、昼だしね・・・と見送ったのですが、そう、セックスの問題です。

風俗嬢ちひろのエロシーンがふんだんに盛り込まれている「ちひろ」。たぶん、参加者の女性の中で、私だけがその数々のエロシーンを見ました(笑)。いわゆる綺麗なエロではないです。

ちひろ 上

「ちひろ」はモーニングで連載されたもので主な読者層は男性のようですが、いわゆるまっとうな社会生活を営んでいる中産階級以上の女性、しかも子どもを持つ女性が読んだとき、どういうふうに感じるのか、非常に興味があります。

facebookを見ていても、小さい頃から子どもに性教育をしようとか、お母さんが性教育を学ぼうというイベント・勉強会等が少なくありません。すばらしいことだと思います。
けれどそういった場所ではなかなか語れない「性の話」もきっとあって、あるのが当然で、そういうことを必ずしもオープンに語りあう必要もないとも思うんですが、綺麗で正しくてまっとうなだけの性の話は、どこか片手落ちのようにも感じます。
まあ、性「教育」であれば、それでいいんでしょうけど。。。

教育はめちゃくちゃ大事で必要だと思っていますが、やっぱり教育だけじゃ無理だよね。とも思うわけで、そのあたりも、物語の役割って大きいんじゃないかなと。
夜の勉強会のときにでも、いろんな方に聞いてみたいです。夜の勉強会って、なんか響きがやらしいですね(笑)。
とりとめもない感想でした。長いね…。

約3年前に「ママじゃな」に書いた文章『子どもと「物語の力」』を再掲します。
3年経って、考えが変わった部分もあるな、またちゃんとまとめたいなと思いつつ。

mamajanaiwatashi.hatenablog.com

追記

「物語」が届かない背景には、スキマ時間を埋めるネット特にスマホの普及、
育児や家事や長時間労働など多忙すぎる生活もあり。

でも、子育て世代よりもっと前から、日本人って忙しすぎるのかなーと思います。
子どもも習い事とか塾とか部活とか(そして最近はLINEとか)でホント忙しいですよね。
本を読むにしろ映画を見るにしろ、あるていど時間が必要ですからね。

私はヒマな子どもだったので、友だちと遊んでも、テレビを見ても、さらにたっぷりの時間を持て余していました(笑)

大学時代もバイトとか恋愛とかそれなりに忙しくしてましたが(笑)その代わり授業にあんまり出てなかったので(←おい)映画とか小説とかたくさん摂取できたんですよね。
若い頃にそういう時間が持てたから、今でも物語の力の恩恵にあずかれてるのかなーと。

「読みたいけど、何の本を読んでいいかわからない。どの映画を見たらいいのかわからない。売れてるのを見てもぴんとこない」みたいなことをおっしゃる方もけっこういて。

私は、いついかなるときにも、欲すれば今の自分にしっくりくる物語が必ずある、それを本屋やレンタルショップで見つけることができるという確信があるんですよね。
そのことが、人生において時にやってくるどうしようもない孤独感や閉塞感をやりすごすためにどれほど力強いツールになっているかを思います。

女性は子どもを持つと、好きな時に好きなところに行けない、会いたい人といつでも会えない、しゃべれない、というような時期があります。
そういうときにドラマとかマンガとか小説っていうのは、すごく手軽でポータブルで優しいツールなんですよね。以前から馴染んでいれば。
でも、今まであまり本を読んだり映画を見たりしてこなかった人にとっては、急に習慣づくことじゃないんですよね。ハードルが高い。
 
子育て期に孤独感で悩むお母さんの話をよく聞きますが、そんなとき、それぞれの方にぴったりの物語(広義のアート)が手元にあればなあ・・・と思うんです。それが難しい日本の社会状況を感じます。こんなに先進国のはずなのに。

政治とアートとを同時に考えたい。
同時に私たちの手元に取り戻したい。

というのを考えているのはそういうことです。
今の日本人の生活スタイルでは、子どもから大人までアートがなかなか身近にならない。生活スタイルを変えるには産業構造とか社会つまり政治が大きく影響してくる。
もっとできることはないんだろうかと考えています。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2191974894422451&id=100008298858695

参加者の皆さんとランチ。ここでも話が盛り上がる。サクと夫は、仲良しの友だち父子と一緒に、夫の実家に遊びに行ってた。川で魚を取ったり、畑のじゃがいもを掘ったりして楽しかったもよう。よかったよかった。夜ごはんは、たけのこごはん、麻婆ナス、きゅうりとにんじんの和え物。子どもを遊びに連れていって、夕方に帰って来てから、たけのこごはんを作ってくれる夫。優しい~。でも世の中のお母さんはこーゆーこと当たり前にしてるわけよね。