『「憲法改正」の真実』 樋口陽一、 小林節

「憲法改正」の真実 (集英社新書)

この本はとても良かった! 面白かったし勉強になったし、個人的にはとても読みやすかった。著者に並んでいるのは憲法学の泰斗、権威だけど、対談形式になっているし、その対談がけっこう感情ダダ漏れなので面白いんです。
「まったく、(今の自民党を見て)自分の楽観主義を反省しました」
「あんな無知な人たちと論争する不毛さに疲れます」
「先生もご苦労なさってきたんですね」などなど(笑)。

2016年3月出版なので、この本で議論されているのは2012年4月に自民党が発表した草案、及び、出版に至るまでの国会での質疑や議員の発言等について。

ちなみに、この草案は、今も自民党の憲法改正推進本部サイトで掲示されているので、今のところ公式最新ver.と解釈されてもおかしくない。いざ改憲が発議されるときは(票を獲得しやすいように)もっとマイルドな条文に変えられるのだろうけど、与党の改憲派の核心はここにある、ということだろう。

日本国憲法改正草案 | 自由民主党 憲法改正推進本部

この本の白眉は、「与党の改憲派は「日本の良き伝統を重んじた憲法を」というけれど、彼らがめざすのは、日本の政治がとりわけ異常だった1935年~1945年、つまり、戦時中の日本なのだ」と喝破したことだと思う。彼らの主張や改憲案を見て、どうしようもなく違和感や不安感を覚える部分を、憲法学者たちがきちんと言葉にして理路整然と説明したということ。

改正草案にふんだんに盛り込まれている「わが国の長い歴史と固有の文化」「国と郷土」「誇りと気概」「和を尊ぶ」「家族」などの美しい概念について、

美しく麗しい言葉であっても、法の歴史的文脈の中に置くと、違った結果が見えてくる。こうした言葉は、何かを排除し、何かを押し付けるために使われてきた経緯のある言葉なのです。
偏狭なファシズムを支える道具になってきたのです。

と筆者は述べ、その例として、第2次大戦初期のフランスのヴィシー政権の例を出す。

いち早くナチスに従属したその政権では、「自由、平等、博愛」というフランス革命以来の3つのスローガンを「祖国、家族、労働」に置き換えたというのだ。憲法に道徳を持ち込むのは一種の思想統制の根拠になりうる。「法と道徳を混同するな」は近代の大原則であるという。ほんと、そりゃそうだよね。

改正草案における人権の軽視。憲法の「要」の1つといわれる13条、今、「すべて国民は個人として尊重される」とある条文は、改正案において「すべて国民は人として尊重される」となっている。個人の「個」が削除される衝撃を2人は語る。改憲派はそもそも個人の権利を常に否定したがる。ここにいう「人」とは、「犬や猫とは種類が違う生物」といった程度の意味しかない。「個人の権利」だからこその「人権」なのだ、と。

改正草案に記されている【緊急事態条項】についてももちろん解説がある。

「大災害やテロ等において政府の権限を強化し、事態の対応にあたって国民を守る」
というのが建前だが、これは権力の暴走を防ぐためのストッパーを外すことにつながる。それこそが彼らの狙いである。何をもって「緊急事態」とするか、その判断が内閣や国会(与党)にゆだねられていれば、恣意的な「緊急事態」によって、私権の制限や選挙の凍結、また政府は予算の財布のひもを握ることもできることになるのだ。

阪神や東北で支援活動をした弁護士たちは、災害に際して中央の権限を強化したところで意味はない。被災地の状況がわかるのは現地。むしろ自治体の首長に権限を委譲する方が大事、と言っているという。求められているのは、災害対策基本法など、具体的で実用的な法律の整備、改善である。

東日本大震災に関連しておかしいと思うのは、「想定外」の原発事故という人災があったのだから、それに対応する修正をしなくてはいけないのに、原発事故への対応策は特段、強化されていない。危機への対応を怠りつつ、そのくせ、国家緊急権を憲法化したいと自民党は言う。

もっともな指摘。

明治に作られた大日本帝国憲法は、現代の目から見ればもちろん不備や制限も多いが、近代的精神にのっとって作られていた。そして、当時の議員は、国民に選ばれた自分たち議員が、藩閥という権力に拠った政府の暴走を防ぐため、憲法を存分に活用していたのだという。ある発言や政治的行動が立憲(憲法順守)か否か、というのは、明治大正の政治家たちにとっては常に大問題だった。第18代首相寺内正毅が「ビリケン」とあだ名されたのも、「非立憲」という批判から来たものなのだ。

議員の意識に変化が起きるのは戦後で、新しく「主権者」になった国民に選ばれた自分(議員)がもっとも偉いのだ、憲法何するものぞ、ということで立憲主義が形骸化していった。

今、枝野が新しく立てた「立憲民主党」が野党第一党として名乗りを上げたが、こうした意味で、「立憲(法による支配)」と「民主(人民による支配)」は時に対立する、という説明は非常に示唆に富んでいる。

しかしだからといって立憲を軽んじて良いわけはなく、バランスが大事である。存在する憲法の軽視がエスカレートして行きついたのが、ナチス・ヒトラーによるワイマール憲法の停止だという話は、(数年前に麻生太郎が失言によって注意喚起してくれたにもかかわらず)まだまだ知らない人が多い。

ドイツには国民主権に基づく民主主義をうたったワイマール憲法があった。しかし、ヒトラーは、選挙によって民意を得たことを根拠に、実質的に憲法を無効化してしまった。その結果は歴史が示すとおりである。麻生の「ワイマール憲法は、気づいたらナチス憲法に変わっていた。騒々しく議論するんじゃなく、あの静かな手口に学んだらどうかね」は明らかに、“その手口”をさしている。あの発言から数年、与党はまさしくその手口を学び、静かに国を作り変え続けている。

また、様々な条項で国民の権利を制限する改正草案において、「自由経済だけは制限せず、経済発展の追及を肯定する条文が追加されている」という指摘も見逃してはいけないところ。新自由主義への傾倒と復古主義とを同時に掲げる改正草案について、この本では「キメラのような」と比喩しているが、私は両者は一体なのだと思った。

つまり、彼らはもっともっと儲けたい。それは個人的に利益や資産を得たいというのもあろうし、日本という国が経済的地位を保つことで、その上部に位置する自分たちの地位を守りたいというのもあるだろう。しかし、経済のグローバル化は、新たな勢力の台頭や新たな価値観の創造にもつながる。そこで、「古き良き伝統」「家父長制」「国民の義務」等のを掲げ刷り込むことによって、自分たちの支配的地位を守り、階層の再生産をしようということ。もちろん、古き良き伝統に従ってお上に従順な国民は、統治にあたって何かと都合がいいのだ。