『おんな城主直虎』 第49話 「本能寺が変」

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好きな作家が書く歴史上の有名事件。当然気になる、当然期待する。
そんな今回、狭い安土城、狭い座敷、狭いあばら家、狭い山中、狭い船の上・・・・
という、ある意味大河ドラマの後半らしいちんまりとした舞台で繰り広げられた(笑) 
そういう「縛り」があるときに作家の個性や実力が出るものだったりして、大変楽しみました。

みずから膳を運んで饗応し、インスタ映えを気にして細やかな手つきで器を整える。また、狸づらの弟に箔をつけさせるための宝物を選ぶ。「魔王」の印象は鮮やかにひっくり返った。いらぬ忖度も多々あったのだ、と示す描写。それでも、忖度を強いたのは信長なのだ。仏頂面と真意の見えぬ言葉で、圧倒的な力を背景に、その力を時に爆発的にふるってきた信長。今回、柔和な表情の一方で、他家の者たちの前で光秀を足蹴にして彼のプライドを粉々にした姿も描かれたのを忘れてはなるまい。

力の強い者が弱い者を踏みつけ、虐げる戦国の社会システム。自分より弱い者たちを犠牲にするのは、いずれ自分より強い者に叩き潰されることを意味する。あるいは、自分が虐げてきた者たちに反旗を翻されるのも、また因果。

信長にも確かに人間的な一面はあった。でも戦国ピラミッドの頂点に甘んじていたのも事実だった。人間を魔王にする戦国システム。たとえ頂点に位置していたとしても、システムの中にいれば、そこの論理からは逃れ得ない。於大の方が家康に告げた「その中で生かされてきたのですから、そなただけが逃れたいと言うは、それは通りませぬ」って話、そのもの。信長はシステムによって巨大化し、システムによって淘汰された。どちらも必然だった。そういう描き方だったと思う。

愛宕神社で幾度も幾度も凶をひいたあと、やっと大吉日を探り当て、軍勢の馬首を京へと返す光秀が浮かべた微笑みの不吉さに打たれた。彼はシステムの上下をひっくり返す大いなる意思をもっていたけど、それは結局、既存のシステムに飛び込んでいくことでしかないんだなと感じた。飛び込めば取り込まれるしかない。光石研、さっすが、短い出番で爪痕残すわ~

一方で、「今の信長に殺意はないのでは?」「茶を飲めばすむのでは?」と見抜いた家康は忖度とは異なる目を持てた。このあたり、桶狭間で「岡崎に戻ってしまえばいいのではないか?」と閃いたのと同様、英雄は(結果的に見れば)何かをもっている、という話かもしれないけれど、そんな彼も信康事件のときは忖度しまくっていたわけで、あの苦すぎる経験を経たからこそ、今回は見抜けたということなんだろうか? 

どちらにしても徳川軍団w 強い者から弱い者へときっちり序列の付く戦国システムとは対照的に、徳川のおっさんたちは、狭い座敷で上座も下座もなく車座になり、さらにちんまりと輪を縮めてゆき(暑苦しいわw)、山中では一致団結して大根芝居に励むw 

「もうダメだ~、わしはここで切腹する~!」「なりませぬ~!」って有名なシーンが狂言だったの、初めて見たわww 名優たちによる大根芝居の芝居ww ぜいたくだなww この芝居を受けるための、田中要次のキャスティングだったのねww 

これがなぜ「芝居」だったのか・・・と考えると、(徳川を欺き、巻き込もうとしてまで)戦国システムに自ら飛び込んでいった光秀と、逆に芝居を打ってでも戦国のシステムに巻き込まれず逃れようとした徳川、という対比なのかな?

織田につくか明智につくかの選択に対して「どちらにもつかない」を選んだのも、「そのシステムに飛びこまない」「違う道を行く」という徳川の意思の表現なのだろうか。ただし、徳川はやがて石田や豊臣を力で叩き潰す歴史を残すわけで、尺の関係でそこまで描くことはなくとも、その将来がある以上、ドラマがこの先をどのようにまとめていくのか気になる。「どちらにもつかない」「穴山を助けていたことにしよう」という案に、そーだそーだと明るい顔で乗る重臣たちと、戸惑っている万千代との温度差も、どのような意図なのかは最終回を待て
ということでしょう。万千代はまだ若い、成長の途上ということかな。

ああ、最終回!!! なんか、どういうふうにまとめられるのかさっぱり想像がつかないんだけど、思えば森下さんは『ごちそうさん』でもそうだったんです。竹本教授と美中年がカレーを食べにくるというシーンで終わった最終回前日、「いったいどーなるの?!」とTLはざわめきの嵐だった。でも蓋をあければ、納得と大満足の最終回だったわけだから、やはり期待せずにはいられません。

とわと龍雲丸の再会。とわが無神経すぎる、ひどいみたいな意見もあるようだけど、まぁそうなんだけど、彼女らしいと思ったな。それがとわの人生なんだよね。直虎の生き方。

『ごちそうさん』のめ以子が悠太郎を待ち続けて、帰ってきた彼と2人してでかい図体を折りたたんで小っちゃなちゃぶ台で甘いチョコレートを食べた、どこまでも「悠太郎という一人の凡夫の妻」の最終回だったように、直虎は妻でもなく母でもなく性愛よりも戦のない世を作るための戦・・・それも、客観的に見たらかなり小っちゃな戦をする人生なんだよなと思う。そういう人生もあるでしょうよ、と思う。

龍雲丸の身になればかわいそうな気もするけど、でも彼は「勝てねえ…」って納得しちゃうわけだから、それでいいじゃないですか。そういう女を好きになった龍雲丸も、あるいは政次も、あるいは『ごちそうさん』の源ちゃんも、かわいそうなんでしょうか、不幸なんでしょうか。そうじゃないよねって思うんです、思いたい。

思えば直虎は、昔は断然、煩悩の人だったんですよね。亀之丞が帰ってきたときも、かしらに出会ったときも。でも長い年月を経て、人生で唯一同衾した相手と再会しても、「戦」のことだけ考える人になってて、龍雲丸への絶大な信頼は保ちつつも一応自分でも一服盛って保険をかける現実的な大人にもなってて、なんかさあ、切なくもあるけど、直虎がカラッとしてて、本当にいいよなって思った。来週最終回の龍雲丸はきっと、「ごち」の最終回の源ちゃんと同じくらい切なくて素敵なんじゃないかな。それにしても柳楽優弥の華やかさとかわいさはすばらしいなって思いました。