『作家的覚書』 高村薫

 

作家的覚書 (岩波新書)

作家的覚書 (岩波新書)

 

 『黄金を抱いて翔べ』や『マークスの山』で知られる小説家、高村薫が雑誌に連載したものなど、時評集。2014年から2016年にかけての発表で、言及された時事も記憶に新しく、政権を始め今に続く話題も多いし、1記事が2~3ページと短いのもあって、とても読みやすい。

ただ、内容は、愉快というようなものではない。時世を慨嘆するというのがこの本を通じての基本姿勢である。暗澹たる現在に対しては自戒をこめた批判、その先に続く灰色の未来に対しては不安とせめてもの決意が書かれている。箸休めやユーモア、一切なし! だから読んでいて楽しい気分はちょっともおこらないが、ここまで硬派に徹する潔さに敬服する。それに、硬質ながらも装飾をそぎ落とした平易な文章で簡潔に問題を突いてあって、やっぱり面白い。読まされる。

2014年10月、雑誌「図書」に掲載された原稿で、『この夏に死んだ言葉』として「人道」を挙げているのにハッとした。

いま自分が書斎でこんな長閑なコラムを書いている間にも、紛争地域では女性や子供たちが爆撃や銃撃戦の犠牲になっている。ウクライナの旅客機が撃墜されたときにも反応が鈍く、ロシアの武力によるクリミア併合に対しても看過する世界。これはいったいどういうことだろうか、と筆者は問う。

第二次大戦後の世界各国は唯一、「人道」を共通の旗印にして、かろうじて結束してきたという私の認識は誤っていたということだろうか。(アメリカと密接な関係があるにしても)女性や子供を1800人以上も犠牲にするような事態を起こしているイスラエルの当事者たちはなぜ「人道に対する罪」に問われないのか。マレーシア航空機が親ロシア派に撃墜されたとされる事件も、少し前なら国際的な非難の声はもう少し高かったのではないだろうか。
(中略)この夏の世界情勢を眺めるに、「人道」は死語になったのだと思う。


人道とか人権って、最近では口にすると「なんか過激な人」あるいは「お花畑な人」と思われそうな気がする。でも、人道や人権がかえりみられない世界で子どもを育てることほど恐ろしいことはない。よね。

いつか自分の国に決定的なことが起きて自分たちが巻き込まれることになったとき、私たちは「まさかこんなことに」と驚くのだろうけど、過去を振り返ると、こんなふうに「自分には関係ない」「自分が何か言ってもしょうがないから」と見過ごしてきた因果の積み重ねが見えるんだろうな・・・。

「現在の自分の生活がひっくり返るような大事は起こらないという根拠のない楽観と、仮にそうでなくとも運を天にまかせるほかない無為の間で、私たち日本人は今日も浮遊し続けている」

というのはまさに日本人の現状を鋭く言い表してる。私だって、そう。でも、無邪気で罪のない子どもを見ていると、やっぱり浮遊してる場合じゃなくて地に足つけるしかないと思う。ちなみに本書中に「自分の足で立つほかない」という項もあります。

以下、いくつか引用。 

大統領の車列を一目見ようと平和公園の外で列をなした市民たち、その手に握りしめられた歓迎の星条旗、さらには大統領の一挙手一投足を追うテレビの中継映像、街頭インタビューに応じる人々の感動の面持ちなどが、私にはひどく不思議に感じられた。

(中略)戦後七十一年の日本の歩みと現在の立ち位置を考えるとき、アメリカによる原爆投下がまぎれもなく人道への罪であった事実を黙って呑み込むほかないのは、私たち日本人が耐えしのばなければならない不条理であり、歴史の非情である。だからこそ、なおさら個々人の怒りは燃え続けるほかなく、被爆地も被爆地である限り、その怒りを永久に刻み続けるほかない。そう信じてきた私だが、オバマ氏の広島訪問の風景は、この国において、原爆を落とされたことの怒りや苦しみはもはや完全に風化したことを告げるものだった。

『二〇一六年のヒロシマ』

  

(原爆の日や終戦記念日、熊本地震の被災地の現状や沖縄・高江へのヘリパッド建設、北朝鮮のミサイル発射、そして天皇のお気持ち表明など、大きく報道されておかしくない出来事の数々が、リオ五輪の興奮と喧騒に押しやられていった、と2016年夏を振り返る記事)

全国紙や公共放送が突然オリンピック一色になってしまうのが自然の成り行きであるはずもない。これは、いくらかは大衆の気分と政治の思惑を反映した結果・・・

(中略)ふつうの人間は、複数の事柄を同時に注視することはできない。数あるトピックのなかからオリンピック観戦を選んだとき、たとえば沖縄の現状や、天皇の生前退位の可能性や、日銀の金融政策の是非などへの目配りは大きく減じる以外にない。してみれば、こうしたお祭り騒ぎをつくりだしているのは、私たち自身だということもできよう。扱いは小さくとも、内外の重要な出来事は日々報じられている以上、それに注意を払わないのは私たちなのだ。よりよく生きるために、時代に足をすくわれないために、私たちは相当強い意思を発動させなければならない。

『お祭りのあと』

 

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