『赤朽葉家の伝説』 桜庭一樹

 

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)

 

 

ある方の読書ブログでたまたま見かけたのがきっかけで読んだ。
すっっっごく面白かった。勢いがすごい。割と長い小説だけど、続きが気になって気になって、どんどんページをめくって読んだ。これぞ、小説の面白さよね。

鳥取県、山陰の山近くの紅緑村、1953年から50年、女三代と、彼女らをめぐる多くの家族や人々の物語。いかにもドメスティックで荒唐無稽でもあるけれど、歴史や風俗など現実のエッセンスをうまく取り入れた設定。おどろおどろしいようで、どこか滑稽でもあり、なんといっても疾走する筆致でつむがれるストーリー。

'50~'60年代、力強く復興し発展していく「たたら場=製鉄所」や造船所で汗水たらして働く紅緑村の男たち。人々はテレビに映る力道山や長嶋茂雄に熱狂した。「男の時代」である。

そんなふうに、一地方の小さな村たるこの物語の舞台の背後に、「時代」の巨大な影をちらつかせながら物語は進んでいく。序盤、シベリア抑留から帰ってきた「おんなおとこ」の友人の兄が凄惨な自死を遂げ、一代目の主人公・万葉は友人と2人、彼を密やかに葬る。友人が言う。「よぅく働いてもっと豊かな国になれば、わしらの娘や孫の時代には、おんなおとこでも長生きできるかもしれんな」 強烈なジェンダーの匂いが漂う。

製鉄所の労働者夫婦に拾われて育った万葉は、見染められて旧家に嫁に行き、求められるままに夫に体を差し出し、次々に子を産む。彼女は製鉄所で働く穂積豊寿と出会い、生涯プラトニックではあるけれど魂が通じ合うような仲になる。万葉にも豊寿にも思想はない。ひたすら、家族や国家のために働き、よい暮らしを求める時代だった。

万葉たちにとっての戦後は、丈夫な男と、丈夫な女が、死に物狂いで崖を這い上がっていく、その死に物狂いの汗と油にまみれた、そういうものであった気がした。

 

やがて製鉄所にも、全国各地の工場と同様、公害が出始める。万葉の年の離れた弟世代は、政治に怒りを燃やす。'60年代後半、安保闘争、学生闘争の時代である。'70年代は、成長のあとにオイルショック。万葉は、友人と「おんなおとこ」の兄の亡骸を探しに行き、ジョン・レノンのイマジンを歌う。

第2章は'80年代から'90年代、万葉の娘、毛毬の時代。万葉が生んだ4人の子どもは、泪・毛毬・鞄・孤独という名前なのだ。その命名のいきさつなんかがまた、フィクションの面白さをたっぷり味わわせてくれる。スケバンをはり、レディースとして爆走する毛毬。

いまここにいるのは、真ん中に空洞をもった若者たちであった。毛毬たちに思想はなく、その意識の中には社会もまた、なかった。代わりに自分たちのフィクションの世界を作って、実際の世界を上から塗りつぶした。不良文化は、若者たちの幻想であった。なんのために戦うのか、中心部分は空洞であった。そしてだからこそ若者は燃えたのだ。


ステレオタイプだといえばそうだけど、人が時代のうねりの中で生きている、生きるしかないことを強く感じさせながら物語は続く。レディースのマスコットガールだったチョーコを「心の闇」とでもいえるような事件で失い、毛毬は物思いに沈んだ後、鉄腕の少女漫画家として一世を風靡する。バブルを謳歌する世の中で、出稼ぎフィリピーナのアイラを影武者に、描いて描いて描きまくり消費され、過労死のように突然死ぬ。

母の頭には、自分がやるべき仕事しかないようであった。育てるべき子どもも、つくるべき家庭も何もなかった。母はいつまでも、夢に燃える、元気で、そのくせ頑固な二十歳の女のままであった。いくつになっても変わらなかった。

多忙が理由だと言えなくもないが、ほんとうは、毛毬は、産んだ子供を簡単に愛せない、そういう世代の女の一人ではなかったかとわたしは疑っている。(中略)母、毛毬はついに、大人になれなかった人なのではないかとわたしは思う。

 

最後は21世紀、毛毬の娘、瞳子の時代。千里眼奥様の万葉、鉄の女・毛毬を祖母と母に持ち、この小説全体の語り部である瞳子は、「自分には語るべき物語など何もない」不肖の娘だ、と書く。

そして第3部は、祖母・万葉が殺した人間は?というミステリー色を前面に押し出して進むのだが、その実、「語るべきもののない個人」という時代性を強く印象付ける。瞳子には思想がなく、夢中になるものもない。付き合う男も、男性性の弱さに自分を見失いかけているような、優しく弱い男の子だ。でも、なんだかんだいって、瞳子は彼が好きで、彼も瞳子が好きで。

「祖母の時代も母の時代も、みな社会の矛盾を受け入れ清濁を併せのんで大人になって社会で働いたと言うのに、自分はそんな覚悟も力も何も受け継いでいない。」

と瞳子は己を嘆く。

私には語るべき物語はなにもない。紅緑村の激動の歴史や、労働をめぐる鮮やかな物語など、なにも。ただわたしに残されているのは、わたしが抱える、きわめて個人的な問題だけだ。それはなんと貧しい今語りであることか。


親や祖父母の世代が必死に働き、闘って、豊かになってたどりついた先が、こんなふうにふにゃふにゃした弱弱しい、個人の悩みだけを抱える若者たちの時代だというのはとても皮肉なようで、やはり進化なのだろうとも思う。

泪が男を愛する男だったことも、今では平然と口に出せるほどのことにはなっている。男らしさに乏しい瞳子の彼氏だって、そのことに悩みはしているけれど、生きられないなんてことは決してない。一方で、東京という中央に対して、地方にますますしわ寄せがいく課題があるのも'00年代だ。

わたしたちは、その時代の人間としてしか生きられないのだろうか。

祖母が抱えて死んだ、哀しい死の謎を解いたあと、瞳子はそう自問する。そのあとの、

だけどわたしは、がんばって生きていくぞ、と思う。

という述懐の、なんと凡庸で、けれど涙が出てくるほどの尊さだろう。

この物語が閉じた後の2010年代は、震災を始め、これまた想像もできなかったような時代になっている。このあともきっとずっとそうなのだろうなと思う。たった一世代でも私たちをとりまく時代の環境は全然違って、だから断絶があったり、先の見えない不安があるのは当たり前なのだ。「だけどがんばって生きていくぞ」と私も思う。

 

 ●以前に読んだ桜庭一樹の本

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