『みちのく民話まんだら ~民話の中の女たち』 小野和子

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どんぐり文庫の梶田さんからおすすめいただいて読んだ本。聞いたことのない筆者に出版社、【みちのく】東北地方の民話(ここは福岡)。梶田さん、さすがニッチなところまでよくご存じだなあ、と思って軽く読み始めたら・・・最後はもう号泣ですよ。

民話は、お国言葉で1フレーズを1行に書いてあり、下の方は余白が多い。それが、土地のお年寄りにゆっくりと語ってもらっているような感覚を呼び起こす。それぞれのお話のあとには筆者の「あとがたり」が付されているのだけれど、これがすばらしい。お話についての解説や考察、採話したとき(収録されているお話は、筆者が東北を歩いてまわり「民話を知りませんか」と語ってもらったもの)のエピソードなどが書かれているのだけれど、平易であたたかみのある筆致で、さまざまな視点から実に深みのある内容がつづられていて、胸を打つ。

収録されたお話の中でいちばん好きなのは、『眠かけおそよ』。
 
村一番のべっぴんさんを見込まれて嫁ぐ“おそよ”だが、おてんとさまが沈むとちょっとも起きていられない。そうなると旦那はもちろん物足りないし、何より当時の農家では陽が沈んでからも縄をなったりと夜なべ仕事をしなければ食べられないのだ。旦那と実家のお母さんで、夜なべ仕事のかたわらおそよを眠らせないように見張るが効果はなく、おそよに気をとられた旦那は草鞋編みを大失敗、お母さんは大事な麻を燃やしてしまう。旦那さんは「やめだやめだ、おそよを気にしながらの夜なべ仕事は効率悪ぃ」と、おてんとさまがあるうちに真っ黒になって一生懸命働き、夜は夫婦してとっとと寝るようになった。すると、仕事は捗り、夫婦仲はうまくいき、赤ちゃんにも恵まれて、2人はいつまでも仲良く暮らした・・・。というお話。“これで よんつこもんつこ さけた”
 
朝餉の支度の前に草刈りをして、一日野良仕事をして夜は夜で夜なべ仕事、赤ん坊の世話も・・・。くたくたになっても「夫(や舅姑)より先に寝ない、早く起きる」が当たり前だった農家のお嫁さん。それで体を壊した人もたくさんいる。「嫁とはそういうものだ」という思い込みをひらりと飛び越えて、周りの者まで自分の眠りの中に誘い込むおそよは、旧来の倫理観をひっくり返して、みんなの夢を叶える存在だった、とある。
そういう背景でこういうお話が生まれ、好まれて語り継がれてきたのだなあ、とよくわかる。
 
『食わず女房』は、よく働くけど人一倍食べもするお嫁さんを折檻して食べ物を減らし、ついには死なせてしまった姑と息子が、今度は「よく働くけど食わない」女房をもらう。嫁の仕事のおかげで家は大いに富むも、ある日、嫁(実はバケモノ)が結い髪をほどいて頭の中の口でおそろしい量のごはんをかきこんでいるのを見てしまい、「見だなぁー」と振り向いた嫁は消えて、家屋敷も土蔵も消えてまた貧乏に戻ってしまう・・・という話。
 
身を削るほどに働いて、それでも家は貧しいし、夫や姑の目も気になるしで、あまり食べられなかった女たちがこの話の背景にある。語り手はこの話のあと、「ほだから、飯食わねぇで稼ぐなんてものは人でねぇ。人っつものは食わなくては稼がれねぇのさ」という言葉を洩らしたという。
 
最後のお話『猿の嫁ご』では、それまでのお話の蓄積で胸がいっぱいだったのもあって、「あとがたり」で涙が止まらず。家が貧しいために、田んぼに水を引いてくれた猿の嫁にいくことになってしまった三女が、知恵を働かせて猿をだまし、川に落として実家に戻ってくる話。
 
筆者が「なんだか猿がかわいそうね」と感想をいうと、語り手のおばあさんは「なんのかわいそうなことがあるかい」とふしぎそうに言う。いわく、自分も十六で見も知らない相手に嫁ぎ1日中働きづめ、料理も掃除も「やり方が違う」と姑に怒られて実家で身につけたものは全部捨てた。耐えかねて何度も泣きながら実家に帰ろうと山道を行くが途中で足が止まる。自分が戻ればお母っつぁんが泣く、弟妹の縁談にも差し支えると思うと・・・。“嫁ぎ先で好き放題を言い、猿の夫を川に突き落としてとっとと家に帰る娘”の姿は、現実には決して叶えられない夢の実現だったのだろう、と筆者は書く。
 
満足に食べられない、労働がきつい、行き来や電信が困難・・・そういう「民衆の苦労を吸い上げて咲く花が民話」と筆者は書くけれど、あまりにも生活の環境が変わってしまった現代においては共感が難しくなっており、共感ができなければお話自体が淘汰されていくという状況は、きっと民話や昔話の世界では皆さんが憂えているところだろうと思う。実際、自分が子どもだった30年前よりも、今の園児たちは昔話への理解が困難になっているのを感じたりもする。
 
でも、本書でさまざまな種類の民話を読むと、人間の真理や哀歓は普遍で、それらを短い語りの中に結晶化して伝える「お話の力」を強く感じた。実際に私はこんなに面白く、時に感無量に読んだのだし。昔話が、子ども時代に接するお話なら、民話は大人になってから・・・それも、人生の悲喜こもごもを経験した年代になってから読むのがいいのかもしれない。
 
おならが大活躍するような、大らかな下ネタの話もある(『お伊勢参り』)。
嫁をバラバラに切り裂いて殺すバケモノの正体が最後まで明かされない、ぞっとするような話もある(『戸ぉ あけろー』。筆者はその根源は、女の心の中にある嫉妬心ではないかと推察している)。
嫁姑の確執から、第三者のなにげない声かけを経て思わぬ和解に至る話もある(『毒殺、毒消し』。
ユーモラスだったりバッドエンドだったり、色彩はいろいろだけれど、長く生きれば決して逃れられない、己で向き合わねばならない老いをテーマにした話もある(『姥捨山』『山姥の万年機』)。
 
意地悪な継母にいじめられる継娘と、継娘を庇って立ち向かう実の娘という母子3人の話『お月お星』には、精神科医河合隼雄の「母性の二面性」という言を引きながら、筆者は「母なるものの光と影」そして「父なる者の不在」を見る。
農民(常民)よりも下に置かれ差別を受けた境遇を「一人暮らしの鉄砲撃ち」の藤吉とその妻で語る『藤吉谷地』や、筆者が生まれた飛騨の山里で実際にあった出来事として聞いた太平洋戦争を背景にもつ『琴の稽古』など、本書ではさまざまなバリエーションの話を収録している。
 
 民話は単に「むかしむかし」を語ることではなく、語り部という特別な人によってだけ語られるものでもなく、あなたも、わたしも、また語り手なのだということです。わたしたちがよく知っている「むかしむかし」の話だって、みんな、それが生まれた時代には「現代の民話」として生まれ、人々の共感とともに語り伝えられて、現在に至っているのではないかということです。
 いまこうして生きているあなたやわたしの暮らしがそこにある限り、今日も明日も、湧くように生まれつづける、それが命ある民話の姿なのだということを覚えておきたいのです。