『絵本のよろこび』 松居直

 

絵本のよろこび

絵本のよろこび

 

 

松居直、1926年生まれ。福音館書店で編集長から社長、会長まで勤め、日本における子ども向け絵本の黎明期から長きにわたって活躍した。以前、河合隼雄・柳田邦男との鼎談「絵本の力」を読んだことがある。

2002年、NHK(当時の教育テレビ)で「人間講座」として講義された内容のテキストを、「絵本の力」同様どんぐり文庫で借りて読んで、お返ししたあと、加筆修正された単行本をAmazonで購入。

一読して感動して、すぐにもう一度読みたいと思って出先にも携帯して電車や待ち時間等でパラパラ再読しながらうるっとくることもたびたび。全8回の講座ということになっているが、すごく濃い。いろんなエレメントが盛り込んである。

●まずは、「絵本の力とは何か?」というテーマなのだけれど、絵本を啓蒙するより先に「子どもにとって大事なこととは」という話があって、それがとても腑に落ちる。

「子どもにとって大事なのは、『知る』ことより前に、ゆたかに『感じる』こと」

「『感じる』ことは、頭ではなく五感が活発に働くこと。それらは実体験を通してしか身につかない」
「日々の暮らしの中の言葉をしっかりと身につけて、はじめて絵本からゆたかな言葉を読みとることができる」

「人の成長の出発点にあるのは、誰かと『共に居る』体験。まず自分があったのではなく、お母さんやお父さんなど、他者に気づくのです。」

「幼い時に、人との関係の中で気持ちよく生きたという体験をするのが大事」

 

今、こうして抜粋して書き写しながらもうるうるきてる私がいるんですけども(笑)

たとえ文字が読めるようになったとしても、絵本やお話(絵なしの素話)は声に出して語り聞かせることが大事、というのは『絵本の力』でも読んだとおり。文字と絵を同時に読むことはできない。子どもは、大人に読んでもらいながら絵を見ることによって、「絵の世界」と「言葉の世界」とが頭の中で統合するのだと。言葉を聞きながら見ることによって、静止画である絵本の絵はいきいきと動き出し、自分だけの「お話の世界」に没頭することができるのだと。そういう「お話の世界」の体験があってこそ、もっと大きくなったときに、字だけの本を自分で読めるようになる。頭の中にいきいきとお話の世界を作ることができるから。


●次のテーマは、「編集者・松居直はいかにして作られたか。」

子ども時代は北原白秋西條八十の詩を読み聞かされ、親に連れられて行った美術館で上村松園竹内栖鳳の絵を見て育った。中高は戦時中だったが鳥獣戯画信貴山縁起絵巻など「絵巻物」に興味を持って研究したり、民俗学の井上頼十河歴史の先生で、農村や酸素運の年中行事を調べるなどフィールドワーク体験もした。

「編集という仕事は机に座って頭でするのではなく、手と足でするものだという感覚」「子どもの本を編集するときに大切なことは、自分の中に残っている子ども時代の体験と、ナイーブな感覚やういういしいイメージを失わないこと」

そして戦後、海外の絵本に触れて“絵本開眼”する。その思い出の一冊、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』のほか、エッツの『もりのなか』など、いくつかの絵本について、その作者や当時の社会環境にまで目を配って、詳しい解説を加える。これは「プロの編集者による絵本の批評、解説」というエレメントとして楽しめる。絵本の本格的な解説に触れられられることってほとんどないので、解説好きとしてはたまらない部分です(笑) 


「子どもの本に関しては、作者が語りたい内容が、どれだけ子どもにわかるように表現されているかが重要で、そこを見極めないと評価できない」とのことで、「耳で聴くときの文体を練りに練っているか」「物語全体の構成がうまく読み取れるか」「場面の変化や連続性に問題はないか」「細部の描き込みは充分か、描き落としはないか」などポイントはたくさんあり、挙げられている絵本たちがその点、どんなに優れているかが語られる。

レオ・レオーニの『スイミー』について、「これは単に“みんなで力を合わせれば怖いものはない”というような教訓的な話ではありません」とバッサリ斬ってからの解説は感動モノ。「作者がどこに一番多くの場面を費やし、特に力を入れ、工夫して描いているか?」それは、仲間をマグロに食べられひとりぼっちになったスイミーが海の中を泳いでいるときだという。

スイミーはもとから海の中で暮らしていたにもかかわらず、ひとりぼっちになるまでは、自分の生活の場である海という世界がどういうところか、その世界の中で自分がどういう存在であるかも、気づいてはいなかったのです。現代の私たちも、このスイミーと同じではないでしょうか。スイミーはひとりになってはじめて、海という世界がどうなっているのかを自分の目で観察し、どんなに珍しくおもしろいものが生きているのか、またどんなに美しい世界なのかに気づき、その中で自分という存在そのものに気づいていきます。つまり自分とは何かを意識し、自己認識を深めていきます。孤独も自分を見出す一つの手がかりなのです。

 

大人は往々にして、絵本にこめられた、そういった深い眼目を、わずか何歳かの子どもが理解するのか?と思ってしまう。「理解する」。それが、筆者や、他の数々の絵本作家、編集者、教師や、家庭文庫をひらく梶田さんのような人々の迷いなく信じるところなのだ。

●このように、日本の戦後の絵本は、主に当時進んでいた欧米の絵本の分析や解説から始まり、やがて松居自身、「ぐりとぐら」を始め日本独自の絵本を多く手掛けてゆくのだが、他方、戦中戦後の価値観の激変の中で扱いが難しくなったり打ち捨てられたりしていた「日本の昔話」の再話・出版にも心を砕き、それはさらに、「アジアの昔話」出版への情熱にもつながっていく。このテーマは個人的にはこの本の白眉だと思っていて、最終回にこの話をもってきたのも非常にうなずけるんである。

18歳で敗戦を迎えた松居は、進駐してきた米軍の圧倒的な物量のゆたかさに目を瞠り、民主主義という言葉を知ったとき、4年間も戦争をしていた相手国についてまったく無知であったことに気づいたという。

「学校教育には、教えない、知らせないという面があり、時には通り一遍の断片的な知識しか教えられない、あるいは知ろうとする機会を与えられないことがある」 


この批評的な目線は、やがて、1931年の満州事変以来15年も戦った中国について、また日帝三十六年といわれる植民地支配を続けてきた朝鮮にも向けられてゆく。

「彼らの歴史や文化や人々の実態をほとんど教えられぬまま、差別感情を抱いてきた恥ずかしさを痛感し、まず、隣人である中国や韓国の物語を紹介してゆこう。単なる知識としてではなく、人間や文化や風土の違いを知り、また通じ合えるところを心で感じ取ってもらうには、主義主張を越えて人間の普遍的な姿を語り、長く伝えてきた昔話が、子どもが耳を傾けて心を開いてくれるのにふさわしい物語世界ではないか」

 

そんな思いから生まれたのが、天地創造から朝鮮民族の成り立ちまでが語られ、南北統一への願いが秘められている韓国の『山になった巨人~白頭山ものがたり』であり、モンゴルの少数民族の暮らしを広大なスケールと繊細な感情で描いた『スーホの白い馬』だという。後者については教科書にも採録され、日本でもっとも有名なアジアの昔話のひとつだと思う。

私もこの1、2年、何となく「外国の絵本」が気になって、息子用(それは読み聞かせる自分の絵本体験にもなる)に選ぶときに考慮しているのは、まさに「まずは絵本を通じて世界を知りたい、知ってほしい」と思うから。現に息子は、『ならんで ならんで』を読んだとき、「いえのなかなのに、くつはいてるの?」と言った。子どもはよく見ているのだ。

現在すでにヨーロッパの先進諸国がかかえている移民や労働者の移住そのほかの問題に、子どもたちの世代は直面します。異人種、異言語、異文化をどう受け止め、どのように共存し共生するかには、福祉や教育面の対策だけでなく、多文化社会に対する感性や知性を、子どもたちの日常感覚の中に育て養う配慮が必要です。

将来に向けての日本の社会に適合した、見せかけでない多文化主義の備えをしておく発想と展望が切に求められます。知識だけでなく感性による理解力と真の寛容の精神が大切です。絵本もまたそうした問題に深くかかわっています。

 

生まれてきたひとりひとりの子どもの「生きる力」を育て、何十年後にその子らが出てゆく社会をよりよくするためにも作用する、絵本。そんな絵本を1冊1冊、子どもたちに読んで聞かせるのは私たちなんだよね。と思う。

 

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