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『真田丸』 第40話 「幸村」

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前回ラストで登場した明石全登が大坂城を追われた片桐且元を伴っていて、前半は彼が方広寺鐘銘事件を中心に昨今の政治情勢を語り、信繁が幸村として覚醒するまで…を45分で描く手腕! 唸る。

三成も刑部も信繁も清正もいなくなった大坂城で忠義を尽くす片桐の、良かれと思って為すことが次々に裏目に出て、本人も大坂も追いつめられていく様子は見ていてしんどい筋書きなんだけど、銘文を書く文英清韓がアクの強いキャラだったり、前半では抑えた演技の多かった大蔵卿局がにっこりと笑ったり(初めてだよね?)大声を張り上げたりとオーバーな演技をしたりして、暗くなりすぎない。帰還後の大坂城で責められ、茶々の「且元には知恵も度胸もない(から裏切ってなどいない)」という庇い立ては的を射ているからこそ残酷なのだけど、むしろそのようにして股肱の臣を切り捨ててしまう大坂方の愚かさと哀れさが際立った。老いてなお老獪に磨きのかかったような家康との残酷な差。

メインである「真田幸村、ついに爆誕」は、長編ドラマのクライマックス感がありながらも複雑、私には難解な印象すらあって、それが長い余韻につながって、よかった。源次郎ときり、メイン2人の心情をすべてを語りきらないというか、語り残す感じ。

源次郎は「行きたいと思った」とセリフで言う。でも、なぜ行きたいと思ったのかははっきり語られない。「今まで何も為してないじゃない、そんなんで終わっていいの?」と、細かいエピソードを並べ立てて追及するきり。この現代口調がもはや愛おしい。そしてここで「なんとか官兵衛」を盛り込んでくるミタニンの実力ねw

「そんなことはとっくに自分で問いかけていた」と源次郎は言うから、そこに答えはあるんだろうけども。奔流のような回想シーンがすごかった。時系列でもなければ何かわかりやすいテーマが見えるわけでもない、まるでアトランダムな回想シーンで、ああいうのはあんまり見た覚えがない。そのまとまりのなさが、思い巡らして沸騰しそうになっている源次郎の頭の中であり、人の人生そのものなのかなとも思うけど、あまりにとりとめがなくて逆に気になることこのうえない。

つらつらと思い返してみると、あれらが告げる源次郎の心の内はやはり、「当事者になりたい」ということなのかなと思う。源次郎が見て、接してきた多くの人々。天下人秀吉もいれば、負けて死んでいった三成や氏政もいる。負けて死んだけれど、彼らは「己のための戦」をした。自己の存在意義を高らかに謳う宇喜多や呂総助左衛門もいる。決して日の当たるところには出ない出浦や信尹も、自分が決めた生き方を貫いている。景勝の言う「死にざまは生き様」。一方で、“遅れてきた”政宗も源次郎は見てきた。待っていては叶わないことがある。翻って自分はどうか。母に小賢しさを叱られ、役目にいっぱいいっぱいな兄を微笑ましく見守っていた自分。江雪斎に瞳の奥の熾火を指摘された。最後に、とりが言う「大事なのは己のさだめに気づくか気づかないか」。

九度山に幽閉されていることを大助に「流れでこうなっただけ」と説明したセリフがあのときとても印象的だった。そのとおりだと思う。罪を犯したわけじゃなく、直接的に徳川に負けたわけでもなく、流れで流された。卑下することはない。でも、流されるのではなく、「流れ」に自ら乗り出したいと思ったんだろう。補助者でなく、傍観者でなく、己のための戦がしてみたいと思ったんだろう。その、源次郎にとっての「己のための戦」とは何か?というのが、「自分を求める人たちのために戦う」ってことになるのが、なんかめっちゃとと姉ちゃんとシンクロしてる気がして、面白い(笑)。

先に死んでいった者たちの思いを背負うというのがネットなんかではよく「呪いを受ける」なんて言われまして、そういう短慮はよくないんじゃないのなんていう反論も最近はちょいちょいあってその通りだと思うんだけども、源次郎の場合、思いを背負うのではなく、むしろすべてが憧れなんじゃないかなと思った。これまで、小さな策を用いたぐらいで、総じて傍で見ている立場だった彼には、思いを貫いて死んでいった人たちは、勝とうが負けようが己の生をまっとうした存在。そういう憧れを「呪い」と言うのだといわれれば、確かにそういう側面はあるのかもしれない。秀吉のあの鈴の音と、茶々の魔性には、やはり禍々しさも漂ってる。それでも、源次郎が己の生のために再び荒波に漕ぎ出していく流れは、やはり主体的なんだと思う。

主体的というのはエゴも伴うことで、里芋を(冬のために残さず)全部食べてしまおうという姿がそれを象徴しているのかなと思ったし、なんせ春の姿がまったく出てこない回なのであった。秀吉の命で娶った正室で、家康の命で流されてきたから子どもたちを授かった。私は今のままで幸せなんだという源次郎に、きりは「あなたの幸せなんて聞いてない、そんなのかかわりない」と言い放つ。“人は己のさだめに気づかず、流されてきた環境を幸せだと思い込まされているんだ”という断罪にも聞こえるし、きり自身の内面も考えてしまう、これまた難しいセリフ。

先週、春に「自分に正直にならないと損するよ」ときりは言った。今回のきりの追及は、きりが自分に正直になったってことだと思う。源次郎を行かせるというのは、春と源次郎とを引き離すことにもなる。そんなのしょうがないじゃない、ってこと。自分は源次郎に行ってほしいんだから。でも、もちろん、自分とも離れ離れになるってことだ(いや、ハナからついていくつもりなのかな?)。それでもなんでも、とにかく源次郎は行くべきだ、というのがきりの強い思い。

求められることの幸せを語った。きりはこれまで、源次郎に求められたことが全然ない。でも、秀次に求められたり、キリスト教信者の信仰心を知ったり、関が原で不安定な薫の世話をしたり、だんだん、求められることやそれに応えることを知ってきたのかな。九度山でのきりは、言葉では示されなくても源次郎が自分に何かしらを求めていることを知っていたような。それは、春の支えになることも多分含まれていて、きりは「私の幸せなんか関係なく」それをつとめてきたのかな、と考えるとちょっと切ない。だけどそういうの全部とっぱらって、「私の好きな源次郎さんなら行くべきだ」ときりは叫んだ。それが、きりの源次郎にかける思い・求める正直な気持ち。それが源次郎に沁みた。

源次郎もきりも、「自分のため」と「求めてくる相手のため」とが混沌としていて、なんかすごく難しい。それが面白い。初めてきりにありがとうと言った源次郎、泣きそうな顔のきり、見つめ合って、月に叢雲・・・って、ん? このドラマのこれまでの感じでいくと、このタイミングで2人は結ばれたのかな?

で、くじね、良かったよねー。同じく「くじ」を用いるにしても、父昌幸のざっくりした感じとはまったく趣が異なるちまちま感が源次郎らしくもあり。

生まれ変わって己で漕ぎ出していくんだけど、手始めに運を天に任せるっていう、一見、相反する感じが面白い。これまでの己の人生にかかわりある語を千切って、いっしょくたに入れた壺。そこから選ばれた一文字は、一文字ではあるけれど、あの壺の中すべてを包含している。つまりこれまでの己の人生があの一字に象徴されているのであり、それはどの文字が選ばれても「真」なのだよね。己の人生のすべてを名前に掲げてこれからは生きていくのだと。そうやって選ばれた一字が「村」で、流れに流され続けたあげく長い年月をこの辺境の「村」で過ごしてきた彼にとって、なんてしっくりくる文字なのでしょうか。この村から、源次郎は自分の意思で出ていくんだね。

 

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