『山に生きる人びと』 宮本常一

 

山に生きる人びと (河出文庫)

山に生きる人びと (河出文庫)

 

 

筆者は戦前戦中戦後を通じてフィールドワークを身上にした民俗学者。生活誌はもちろん史料や伝承も、山や谷のすみずみまで自らの足で歩くフィールドワークによって得たものばかり。

冒頭の章は「塩の道」。生きていくために必要不可欠な塩を、古い時代、山中深く住んだ人はどのようにして手に入れていたのだろうか?という、問い。素朴だけど盲点だな、っていうここから始めるのがすごくうまいな、と思う。

その答えとしては、海岸で塩を製造した者が山中まで売りにくるパターンのほかにも、「山中から海岸まで出て行って塩をつくる」パターンもあったという。そこから派生して、「自分でやるのは大変だから、塩を焚くための木を海岸に送って海岸の者に焚いてもらう」パターン。木を塩の対価にするわけである。考えてみれば塩を作るには海水を焚くための薪がたくさん必要で、海岸地方よりも山中のほうが木がたくさんあるわけだから、理に適った取引だ。塩を焚くための木を「塩木」といったりしていたのだそう。ちなみに、この論理で、名字でもよくある「船木」は造船のための木のことをいう。

木を海岸まで送るため、川を使う。水運。でも都合よい川のある山中ばかりではない。川が無ければ牛や馬の背に乗せたりもした。また、灰を塩の購入対価にする例もあった。紺屋で染色の色止めに使ったり、麻の皮のあく抜きに使ったりするので、よい灰は高く売れたのだという。一俵の灰をつくるため、多くの雑木を伐る。五斗俵一俵の灰で、二斗俵一俵の塩が買えたらしい。このようにして、山間の村と海岸の村とは意外な結びつきがあったり、そこに婚姻が生じたりしたという。すごく興味深いよね。

ここから、山に生きる人々の生業がさまざま紹介される。

●狩人、つまり野生の鳥獣をとる人。

●杣(そま)、これは木こりですね、林業。

●そこから派生して、大工や木地屋。木地屋も今ではほとんど耳にしない言葉だが、木を使って椀や杓子などの生活用品などを作る仕事のこと。

●鉄山労働に携わる仕事。その中にも、「鉄穴流し」という砂鉄を掘る仕事、砂鉄を銑鉄にするたたら踏み、鋼鉄にする鍛冶屋、たたらに使う炭を焼くなどいろいろな仕事がある。

どうも、昔の人は大部分が第一次産業に携わっていて、その内容は農業または漁業、というくらいのざっくりしたイメージしか持てなかったりするんだけど、これだけいろいろな職業が昔からあったのだなあと思う。

そして、山の生活は平地とはかなり違って、定住しないとか、稲作をしないとかいう特徴も多く見られたという。獣をとったり木を伐採したり、木で製作したりするために、山から山へと移り歩く。柱を2本立て、棟木を乗せ、軒廻りの柱に庇木をわたして、屋根をふく。壁はカヤで覆い、入り口にカヤ菰をたらし、中に筵を敷く。そんな簡単な小屋掛けをして、その一帯での仕事が終わると移っていく。

では、そういった「山に生きる人々」は、どんな人々で構成されているのか。大きく分けると、

「山の人」

「落人」

に二分されるようである。落人というのは平家に代表されるような、戦いに負けたり世を捨てて逃れてきて、人里離れた山深く落ち着く人々。

「山の人」については、以下長いが引用する。

野獣が農耕をさまたげる山中に入ってなお耕作にしたがわなければならなかった理由は、耕作が最初の目的ではなく、野獣を狩ることが本来の目的であり、狩猟による獲物の減少が、山中の民を次第に農耕にしたがわせ、さらに定住せしめるにいたったものと思われる。

山中の人びとの生活を記録したものはいたって少ない。しかし以上のようなわずかな例からしても、山中の民は平地の民とはその生活のたて方がずいぶん大きく違っていたことを知る。

しかもそれは山中であるがゆえに文化的におくれていたのではなく、生活のたて方そのものが違っていたとみるべきである。

まず第一にこの仲間がかならずしも稲作を取り入れることに熱心ではなかったということである。

本気になって水田耕作を求めるならばある程度までそれが可能であったと思われることは長野県下伊那郡坂部の例が物語ってくれる。坂部にかぎらず、そういう例は少なくない。

したがって過去に稲作の経験をもっているならば、山中に入っても大なり小なり稲作へのこころみをしているだろうが、その努力を焼畑集落ではほとんど見ることができない。つまり焼畑集落は最初から焼畑をおこなっており、しかもさらに古くは酒量を重要な生活手段としていたと見られるのである。

そこで少しとっぴな想定であるけれども、縄文式文化人がやがて稲作文化をとりいれて弥生式文化を生み出していったとするならば、それはすべての縄文式文化人が稲作文化の洗礼をうけたのではなく、山中に住む者は稲作技術を持たないままに弥生式文化時代にも狩猟を主としつつ、山中または大地の上に生活しつづけてきたと見られるのではないかと思う。

 

稲作や畑作を含めた、筆者の古代への言及は『日本文化の形成』に詳しい。

『日本文化の形成』 宮本常一 - moonshine


また、取り立てて掘り下げることはしないが、このような「山の人々」が平地の人から軽視あるいは賤視されたこと、しかし同時に、子どもが生まれれば彼らに名付け親を頼むようなスピリチュアル視をしていたことも、筆者は随時書き添えている。

島国で単一の民族だと思いがちだけれど、アイヌや琉球に限らず、古い時代から多様な生活があり多様な仕事があり、「塩木」や「船木」を始め、科学や産業が発達する前から人は知恵や必要性をもって様々な仕組みを作ってきたこと、その過程でタブー視が生まれてきたことなど、読み取れるのは興味深いことばかりだ。