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『人生の旅をゆく 2 』 よしもとばなな

 

人生の旅をゆく 2 (幻冬舎文庫)

人生の旅をゆく 2 (幻冬舎文庫)

 

 

『キッチン』が出たのは私が小学校4年か5年生のころで、それから私の10代に吉本ばななの小説は欠かせないものだった。アイデンティティのひとつだと思うくらい。でも20代になり、30才に近づくころ、違和感のほうが大きくなった。情が深い人で、闇もあって、そんな人がしばしばそうであるように、排他性を感じる。そこには優越感があるような。「私は持っていないけど持っている」というか。優越感と劣等感とが同居してるんだろうな。よくわかる。そういう凸凹が作家の個性、魅力でもあって、若い頃はそこにとても共感し、癒されたり励まされたりしてたのだと思うけど、だんだん読んでてしんどさが増してきた。自然と離れた。

久しぶりに彼女の本を買って読んでみて、好きなところも嫌いなところも変わらないなー、と再確認。作家も変わってないし読者の私の方も変わってないってことかな。でも、震災について書かれた文章は、「あー。こういうとこある人よね。」という部分は随所にあれど、とても胸に響くものだった。彼女は外国にもたくさんの読者を持っている。彼らに向けてという意味合いもあるらしく、とても臨場感ある文章になっている。一人の人間が、一人の作家が、東京で体験した震災・考える震災として、貴重な記録だと思った。

そういえばあの震災からまださほど経っていないころ、彼女が震災について寄稿したのを雑誌で読んだことがあって、そのときもズシンときたのだった、と思い出しながら読み進めていって、最後に「あの日の海」と題された文章の重さに打ちのめされた。父・吉本隆明が海で溺れ、重篤な後遺症を負って過ごす15年もの晩年について書いてある。

すべてが変わってしまってもう決して戻れないのがそのとき既にわかった、という戦慄。周りは生きていてくれさえすればそれでいい、と思うけど、仕事もできず後遺症に苦しみながら生きながらえている本人はどう思っているのだろう。命があって良かった、という思いと、あの事故が父のすべてを奪っていったのだ、という思いとは延々とせめぎ合い続ける。

苦しいことも楽しいことも経験しながら年月を過ごして15年、今でも私の心はあの日の海辺に呆然と立っている、と彼女は書く。それは彼女の固有の体験でありながら、そんな悲しみを、苦しみを、あの震災で、いや震災に限らず、多くの人々が味わった・味わい続けている・これからも・・・という普遍性にも感じられた。それはつまり「私の体験」にもなり得るということだ、と思う。それが「人生の旅をゆく」ということなんだな。という感慨はあまりにも重く、だから私たちは強くなりたい、優しくなりたい、と願うのだろう。誰もが人生の喜び悲しみを味わいながら生きている。でもそれをこんなふうに書ける彼女は、やはり作家なのだなあ、と思った。