『とと姉ちゃん』 第12週 「常子、花山伊佐次と出会う」 (下)ツイートと追記: 個は弱いけどきっと途絶しない
これもまた、怒鳴り散らす・群れるような「ニセモノ」の強さと、とことん自分本位に動く「ホンモノ」の強さの対比なのでしょうね。 URL
劣悪な素材で建築して、4畳半に4人。清、「収容する」って言葉を使ったよね。暮らすところじゃないんだよね。収容するところ。#とと姉ちゃん
4畳半4人のタコ部屋。「それじゃ暮らしを守れない」と滝子。「生きていくためにやるしかない」清は多田さんのリフレインだね。滝子は清を認め、でもそれを青柳の商売とは認めず、きっと看板を下ろすのだな。人間らしさを保とうとする者は消されていく時代 #とと姉ちゃん
勇ましい戦意高揚スローガンを考案する花山と、ささやかで明るい「ちいさいおうち」を描く花山。彼が見せた両面性のうち、後者は切り取られる。たとえ人の多面性のうちの一部でも切り取られて良いはずない。心に傷がつかないはずないよね。あんな花山でも。たとえ今は気づいてなくても。#とと姉ちゃん
切り取る作業を象徴的に見せたなあ。切り取ってるのは自分たちが編集した頁であると同時に、作家とイラストレーターが書いてくれた頁でもある。自分を殺し仲間も殺してる。上は「切り取れ」と命令するだけ。傷つけあうのは戦争に何の動機もない下の人間たち。でなきゃ生きていけない #とと姉ちゃん
そして、そんな残酷な「切り取る」行為も、前回の常子みたいに、事情を知らず思い入れがなければ、何の痛痒もなく張り切ってやってしまう。知らなければ、考えなければ、傷つける行為にも傷つく行為にも人はたやすく与してしまう #とと姉ちゃん
この会社で検閲による削除が何回目かわからんけど、何ごとも、1回や2回じゃ深く考えなかったりするのも人間。何となくやってるうちに、何となく流されているうちに引き返せないところまで行ってしまう。先の戦争にもそういう面があったんだろうな
先の戦争を描きながら、とても普遍的なこと、現代とリンクして考えられることを描いていると思います。面白い。#とと姉ちゃん
とと姉ちゃんで「第1週のテイストで続けばよかったのに」って意見も割とあるけど、むしろ自分はずーっとあのテイストだったら見るのしんどかっただろうなと思うのもそれなんだろうな。竹蔵が死してなお、あのままユートピアを疑いなくひたすら守って雑誌を作る物語なら、何か薄かっただろうなと思う
いくら個を尊重して育てられて「自分の暮らし・ささやかなを生活を大切に」といったところで、その価値観を疑いなく揺るぎなく常に美しく守れてきた人が、他の人の暮らし・価値観を、自分と等価値のものだと深いところで理解できるんだろうか? 「あなたの暮らし」は千差万別だけど等しく尊いのだと
苦労が必要だ(苦労してない人間は劣る)という意味ではなく、人は生きていれば自分とは違う価値観・暮らし方の人々にたくさん出会うのが自然で、「違う」というのは「みんな違ってみんないいね」と最初から疑いなく思えるわけではなく、荒々しかったり不安や不快な一面も持っていることだと思う
「あなたと私は違う」の荒々しさや得体の知れなさ。その不安や不快でへしょげず、「違っても、優劣ではない。等しく尊い」にまで持っていくには、根本として自己肯定感が必要で、そのために己の個を尊重される経験が大事ってことなんじゃないかな。
「個を尊重されて確立した自己肯定感」っていう土台の上に立って、「私と違ういろんな人・いろんな価値観、それによっておびやかされる私の個」という荒ぶる嵐の季節を幾度となく経験して、「私もあなたも同じく尊重されるべき存在」にたどりつくというか・・・・
常子にとっては、母と祖母の対立や、森田屋の騒々しい暮らしやタイピスト室&会社が、最初はまるで理解できず、不安や戸惑い、ショックを感じたこと。3兄弟や女学生たちの意地悪は理不尽でくだらない、世の中の一面。
でも母と祖母の双方の言い分がわかり、森田屋の暮らしも彼らにとってかけがえのない大切な日常だったことがわかり、多田さんや早乙女さんの言動も、当初は受け止められなくてもやがて「なぜ、ああだったのか」に思い至る日もくるだろう。世の中を知り、いろんな人のいろんな暮らしを知ってゆくことで。
母と祖母の対立を見たことも、森田屋で暮らしてああいう家族の在り方を知ったのも、会社での軋轢や理不尽も、それら未知の世界に踏み込んだから「あなたの暮らし」を作れるんだろうなって思う。ユートピアに居続けられた人じゃないから。
多くの物語が「どんな経験も糧になる」を描くのは、私たちの人生がそういえるからだと思う。反面教師とか、「こういうときは逃げなきゃ無視しなきゃ」みたいな負の教訓でも、あとから考えれば「あれはいい経験だったな」と思えなくもない、常子の物語も前半は経験の積み重ねなんだな。
とと姉ちゃんは痛みや悲しみ、ぞわぞわ心地悪い感じの描き方がうまいと思う。誰かが怒ったり傷ついたりするとき、「この人はこうするしかないんだ」と思えて、それが本人の弱さに起因するところがあったとしても、見てて痛みを感じる。多田さんもそうだった。
深川の女学生、タイピストたちや酒場の男たちの素性や心理描写は描かれない。でも、対立していた滝子と君子や、近しく暮らした森田屋や、正面きって対峙した早乙女さんの心理・価値観は充分描かれて伝わるから、「描かれなくても、モブにも行動原理があるんだろうな」ってスライドして考えられる。
多分、わざと説明しないんだろうなと思う。現実でもそうだから。関わる人みんなの氏素性や暮らし方や価値観がわかるわけじゃない。目に見える一部分から、想像したり誤解したり(されたり)理解できなかったり(されなかったり)する。
でも、若くて守られている頃にはわからなかったことが、年を経ていろんな人やパターンを知り、複数の立場に立ってみたことで、想像力・理解力が増していく。もちろんそれでも理解できない、いけ好かない相手だっている。両方とも、とっても自然なこと。
基本的に常子目線だから描かれないことがいろいろあって、視聴者なのに俯瞰できなかったりする。常子と同じく、わけのわからない世界に放り投げられていると感じることがある。そういう文法のドラマなんだと思う。あまり好かれやすい文法でないだけに、意思あって選択したんだろうと思うけどね
ユートピアの住人でいられなかった常子が作る雑誌が楽しみですよ
「守る」ってなんだろうね。どうしたら守れるんだろうね。って突きつけられるみたいな、今日の #とと姉ちゃん 。
清も滝子も、器が小さかったり耄碌したから…力が及ばないから青柳を守れない、と自分を責めるのは違うよな。心あるまっとうな商売をしようとするなら、どんなに有能でも若くても、あの時代に深川の木材商は守れないんでは? そしてそもそも老いや病気に本人の責任はない。 #とと姉ちゃん
かつて君子を守ると力強く言った自分の言葉を「とんだかっこつけ」だと滝子は言った。どんなに有能でも力を尽くしても、大事な誰か・何かを、個人の力で必ず守るなんて限界があるのでは。ていう示唆じゃないかと思う。「一人では解決できない・助け合う」が定石の #とと姉ちゃん ワールドだし。
甲東出版でも戦意高揚の記事ばっかり載せてるらしい。警察を殴った社長も「しょうがない」と言う。メシを食うために嘘の言葉を世に出してる。個人が自分や家族を守ろうとすると、権力に屈したり嘘に加担したり人を陥れたりしなければならなくなる。個の弱さ、個の限界。#とと姉ちゃん
強い滝子にも年齢や病気は襲うし、個は弱い。弱いから強い者に屈し集団の一部になって別の個を追いつめる。嘘をつく。…ってのを丁寧にやってるけど、「どうしたもんじゃろのー?」の具体策は戦後にしかできないだろうから、当分つらい展開? 意外にここから敗戦まで早い? #とと姉ちゃん
にしても、今日は始まって以来ぐらいの暗い回だったな。ミッチー唐沢で華々しく始まった週前半との落差がすごい。てか、後半とことん暗くやるために前半があれだったのか。清のクローズアップがこんなつらい局面とは悲しいね。でも清に惹きつけられるね。萌えキャラで終わらずよかった #とと姉ちゃん
滝子は嘘をついて去っていく。それは小橋家(主に美子)のためだけど、自分のためでもあったのかもな。お国のためでも保身のためでもなく、誇り高くあるための嘘。常鞠や君子はそれも察していたように思う。泣いて本音を吐露して去ったまつとは対照的な姿。常子は両方を見た #とと姉ちゃん
時代や権力という大きなものに潰される個の姿を描いてるけど、新しい命を抱え逞しく新天地へ向かった森田屋同様、小さな希望も感じる。青柳は滝子らしく、誇り高く終わり、商いの実体はなくなっても精神を託せる常子がいる。物事はそんなふうに続いていく。個のしぶとさも描いてる感じ #とと姉ちゃん
君子が滝子と決裂して青柳を出ると告げたとき。失業したとき。今、目黒の家に移って。常子がことさら明るく振る舞うのは「それでも暮らしは続いていく」からだよね。「普段通り」を守ろうとする。ある種の防衛本能というか。何となくわかるなあ。その姿が時に反発を生むのもわかる #とと姉ちゃん
店の中。「飽き飽きした」は滝子流の意地っ張りで、本当はとても見られやしない気分だっただろうね。でも昔の帳簿は懐かしく振り返ってた。文字や言葉は記号だけど、モノや実体がなくても、その豊かな姿を想起させることができるんだなあ。いずれ自分の雑誌を作る今作らしい表現だった #とと姉ちゃん
君子がやたら繰り返してた「お母様おかげんいかがですか」は、星野の新種発見週の「元気でいて下さい」のリフレインじゃないかな。「周囲は気遣う、願いことしかできない」という表現。それは哀しい現実だけど、そんな誰かの願いを感じることで、人は励まされることもある #とと姉ちゃん
これ。このときの「元気でいてください」の変奏が、君子の「おかげんいかがですか」の繰り返しじゃないかな。こんなことしかできないけど、切なる願いなんだよね。やっぱり、#とと姉ちゃん は現実の残酷さを踏まえたうえで描かれる優しい物語だな URL
清や長谷川にも、出自や若年期などの設定はいろいろあったと思います。視聴者としてはそれが見たいとこだけど、それを作中でいろいろ説明して肉付けするやり方じゃなく、「そういう設定の人物が今どういう言動をするか」に特化して人物を描くのがこの作品の作風なんだなと思います #とと姉ちゃん
平凡な男が暮らす小さなかわいい家は切り取られ、200年続いた伝統の店は看板を下ろすのだった。えらく偉そうで周りを振り回しているらしい男が書く存外綺麗な絵も、きっぷのいい女店主が関東大震災からも立てまわして切りまわしてきた店も、システムに対しては弱い個でしかない。
印刷された絵も文字も、検閲の結果、切り取らなければならなくなった。いっぽうで滝子は、店の中という実体ではなく、帳簿に書かれた文字を見る。ここも対称だったんだな。戦後、常子は書かれるものの強さを信じ、それを誰からも脅かされない雑誌を作るんだろう。もう二度と切り取らなくていい世の中への願いを込めながら。
「美しすぎる」なんて、もはや使い古された感のある形容詞がこれほどぴったりくることもないんじゃないかという、「美しすぎる祖母」滝子が登場したとき、これはいつか彼女がボロボロの老婆になる前フリの姿なんじゃなかろーかとも思ったけど、滝子は凛としたままで物語から去っていった。それが、彼女の誇りが守られたように感じてホッとしてる。
先週の森田屋・今週の青柳と立て続けに戦争によって店を閉めることになったわけだけど、森田屋は家族の絆をさらに強めることが示唆されながらの退場、青柳滝子は最後まで自分で決断し誇り高く、息子と番頭に支えられ、常子に自分の商いの(生き方の)精神を伝えた。ツイートしたように、個の弱さ、限界を描き、蹂躙される姿を描きながらも、しぶとい個、完全に葬り去られたりしない個の姿を描いていたと思う。
そして、絵が切り取られてから物語の舞台からも消えたままの花山伊佐次はどのような顔をし何を思ってこの戦時中を過ごしているのか、気にならずにはいられない。ここはもちろん、わざと、彼の気配を殺しているのだ。「一億火の玉」の激烈なコピーだけを残して。