『とと姉ちゃん』 第10週 「常子、プロポーズされる」(上)ツイートと追記:「ナレ成長」を選択して描かれたもの

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初任給から2年、「ナレ成長ですかい!」と批判もあったが、月曜日からのっぴきならない状況が展開されて、意識的・無意識的にかかわらず、「ああ、タイプ室でだんだん認められていく様子よりも、こちらが描きたかったのね」と惹きつけられた視聴者が多かったものと推測される。

ナレーションであっさり飛ぶところは、要は作り手が「ここの詳細は必要ない」とか「スキップした方が劇的」と判断しているわけで、前作ではあさちゃんの仕事関係もばっさりそれをやられていた。なんたって銀行設立がほぼナレーションだったのだから、それに比べればタイピストとしての習熟過程がすっとばされるのなんて序の口ではないかと思うが、今作の方が批判が多いように見えるのは、作品全体としての満足度が低い視聴者の可視化でもあり、それだけナレーションでスキップするまでの過程を描きこんでいるからでもあるだろうな。そこでハシゴ外す?という気分にさせられるという。で、そんなふうに、わかりやすく綺麗で社会通念的に正しいような結論を出してスッキリさせてくれないから全体としての満足度が下がる、と。

全体としての満足度が下がると作品への信頼感を持てないから、次にどんな描写やどんな展開が出てきても懐疑的・批判的な目で見ることになって、そうすると画面やセリフで示されている情報を取得しそこねたり、曲がった解釈したりすることも出てくる。「不満」「批判」という観点に見方がより引っ張られていくというか。でもどんなふうに解釈するのも自由なんだと思います。そういう個人の解釈を見て、「ああ、この解釈はいただけないなあ」と個人的に解釈するのがSNSで、どこまでいっても主観の世界になりがちなのですよね。自由とは、誰かに客観的に絶対的に正しいといってもらえないものかしさでもある(笑)。

さてナレ成長の末に今週何が描かれたかというと、「一人前の給料もらって家族を養えるようになった結果何が起こったか?」という、とと姉ちゃんへの反発やモチベーションの揺らぎ、そして結局「とと姉ちゃんとは何か? それやる必要性ある? 本質を見失ってない?」という話で、先週のタイプ室騒動がかわいく思えてくるぐらいに主人公にシビアなものをつきつける脚本なのでした。登場して間もなくガンガン姉を責めたてる杉咲花ちゃんの演技も迫真だったが、母親に「怖い顔」と評される高畑充希の表情! 今週は彼女の演技の真骨頂を見られそうだ、という予感で胸が高鳴る。

ドラマの作り手の「とと姉ちゃん」たるものへの踏み込み方は生半可ではなくて、そこにフォーカスがあたったとたん、女学校や職場の諸々はあっさりと後景化してしまう。それは常子の視点そのもので、彼女にとって何よりも大切なのは家族(や今週の場合、星野との関係)であり、考えてみれば私たちだってそうかもしれない。学校や職場でのゴタゴタなんて、家族内に一大事が起きたり好きな異性との関係に変化があれば、二の次・三の次になるものだよね。

先週のタイプ室騒動があまりに有耶無耶で、上司の鶴の一声というあまりに後味の悪い結末になったのは、やはり「問題は棚上げされている」表現だったのだなあと週をまたいでわかる展開。キャラメルおじさんや部長のように「わかってくれる人もいる」けれど、それが(家族や個人同士の関係レベルを超えた、社会システムや社会通念が関わる範囲まで広がった問題の場合)簡単に抜本的な解決をみないのはこのドラマの特徴であり誠実さだと思うけどスッキリしたい・明るい気持になりたい視聴者には不評。朝はトイレでスッキリ出してから一日を始めたいみたいな感じ? 

早乙女さんがデレたのは不可解な表現ではない。「常子の考え方は理解できない、けれど、理解できないものの存在を認める」というスタンスを彼女は先週はっきりとあらわしていた。未熟でも、会社の空気に染まらず集団の意地悪にも早乙女自身の不親切にも負けず(早乙女の行動にも確かにイケズさはったのだ、そこ重要)、自分で考えて黙々と手を動かし自分の意見をちゃんと言える常子をじっと見つめ、一目おくようになったのは先週の描写だけで十分わかった。

「世の中には自分に理解できない考えで生きている人がいる」「簡単に理解なんかできないけど、理解できないものの存在を認める、認め合う」早乙女との出会いからプロセスで描かれたのはそれだ。

不倫騒動のポイントは、「1.不倫の事実があったのかどうかわからない」「2.女が主体的に生きようとした場合のひとつの顛末」だと思う。

「1」はツイートもしたように、「不倫があった」という妻の推定と、「諸橋ならやりかねない」という女子社員たちの空気と、騒動の責任を女子社員のみに負わせる裁定とそれを受け容れる(受け容れざるを得ない)諸橋、という展開だった。本当のことはわかっていない。本当じゃなかったとしても、奥寺妻がこういう言動に出た以上、結果は変わらなかっただろう。

「2」は、諸橋は国家総動員法下にあってもパーマをやめず彩り豊かな弁当を食べて、新しい女性像を体現する自分でありたいと明言していた。奥寺との関係が恋だったのか、2人がどういう関係だったのかはわからないが、好もしい男とは親しくしたいというスタンスが彼女にあったのは間違いないだろう。そうやって「主体的」であろうとした彼女に与えられたのは一方的な解雇だった。男には社会的なお咎めがない一方で、彼女は仕事を失い、それにしたがって社会的信用も失い、いわゆる「まともな結婚」への道も厳しくなったのも容易に予想できる。「一人前に給料をもらって家族を養っている」自負を強めている常子にとっても、そんな立場の危うさを思わせるに十分の痛い一発であり、この現実を早乙女がとうに理解していたことも描かれている。また、主体的に生きることが孕む他人(今回は奥寺妻)を傷つける問題も示唆されていたと思う。


女性を取り巻く問題を扱うために、(不倫で破滅する女性を描くとは)女性を貶める描写をするのは拙策ではないか、という意見を見た。問題の深刻さ難解さを描くために問題を明示するか(それは必然的に見ていて痛々しい描写になるだろう)、あるいは前作のように、素敵な夫に支えられたり、家が破産しても字が読めなくてもちゃんとそれぞれの場所で幸せになる姿を描きながら「女が働くのは大変」とセリフで示すかは作り手のスタンスの問題であり、受け手の好みの問題かな。どちらも必要なのかもしれない。

私としては、後者では慰撫の役割(しかも現状を甘受したうえでの)しか果たせないのではないかと思うけど、TLを見ていると朝ドラに慰撫を求める層も決して少なくないようで。ともかくも、まったく違うスタンスの作品が連続して放送されている状況は、どちらか一方しかないよりフェアな状況のようにも思える。