『とと姉ちゃん』 第10週 「常子、プロポーズされる」(上)ツイートと追記:「ナレ成長」を選択して描かれたもの
ととの家訓を額面通りに受け取り口うるさいオヤジと化して家族を形がい化させつつある常子。「神国日本」「ぜいたくは敵だ」と、勇ましいスローガンで一致団結し思考停止して(あるいは統制されて)破滅的な戦争に突き進む日本。小さな共同体で起きているのと同じことが国家でも。 #とと姉ちゃん
家族の約束も国家への奉仕も、上から押しつけられた「お仕着せ」と化してる中、商家の衣料支給の「お仕着せ」のほうは、店の看板の1つであり小僧との信頼関係の証としての本来の意味を見失ってなくて、その心ある仕事に必要とされてる美子はすばらしいけど、常子が可哀想にもなるなあ #とと姉ちゃん
とととの約束を胸に何の疑問もなく「家族のために」と生きてきた常子に現代人としては違和感を覚えつつも、それが常子自身の望みであり懸命な姿を見れば他人が善悪を評価することじゃないねとも思ってきたけど、その意味を問われるときがちゃんと来たのですね。戦争というタイミングで。#とと姉ちゃん
働く理由は人それぞれ。弁当の中身も、休日にしたいことも、大事なものがパーマネントだったりお裁縫だったり、その理由も人それぞれ。「人それぞれ」が許されない共同体・許されない時代の、怖さ残酷さ。自分が我慢してたら、我慢しない他人が許せなくて攻撃的になる。負の連鎖… #とと姉ちゃん
常子のように女の子であっても、か弱き者を保護する者という自認があると、意識が横暴になってしまうことをきちんと書くのは本当にフラットで、とても好感を持つ。女性に横暴な男性が少なからずいるのは、性別の問題ではなく、家父長制的な構造がもたらす問題なのだよね。 #とと姉ちゃん
その力の非対称性が先週の職場でも書かれていた。力がある方の男性社員は自分たちの横暴さに無頓着で、力のない女性社員がその態度を変えたくて、早乙女のように正面から正論を言っても、常子のように下手に出て働きかけても、彼らは問題にさえ気づいていないから何も変わらない。 #とと姉ちゃん
職場における力の非対称性は性別に起因するように見えるけど、より高い能力のいるメインの仕事と、補助仕事という明確な内容の差もあると思う。親子関係と同じで完全に対等でない。上の者が下の者を尊重する意識を持たないと下の者は人としての尊厳が傷つき、問題が起こる。 #とと姉ちゃん
常子は「家族のためにお金を稼ぐ」という理由で仕事してて、そのためなら雑用だろうがどんな仕事内容だろうが頑張れるって感じだけど、当の家族が「家長ウザい」と感じてたら、ハシゴ外された常子の仕事のモチベーションどうなっちゃうんだろう。「とと姉ちゃん道」は意外と険しいね。 #とと姉ちゃん
常子は星野を竹蔵の向こう側に見ているから身近に思い安心感を得ている。星野は常子自身を見ていて好きで、もっと近づきたい思いは性愛にもつながる。フィルターを取り払えば自由になり本質が見えるけど、それは剥き出しになり外気に晒されることでもあるんだな。それでも人は求める #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん もし、ととが生きていたら娘たちが大きくなっても家訓をあのまま守ってたかどうか、ってところかな。「家訓ありき」ではなく、なぜそうすることが大切なのかが肝で、ととは子どもの成長に合わせモデルチェンジしていったかもしれない。でも、まずは家訓を守ることが今の常子の命題で→
→本質はまだ見えてないのだろう。「とと」への階段を登る途中の常子の今回の課題はそこなのだな。わたしはこういう風に、常子がひとつひとつ、不器用ながらもいろんな人との関わりをヒントにして(やや作為的なときもあるけどw)「とと」へと成長していく様がすごくいいな、と思う #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん 家族のために「それが役目」と働く常子、そんな姉の苦労が分かるから美子との仲を取り持つ鞠子、そして美子も決定的に「おでかけ鬱陶しい」とは口に出せないのですよ、働く常子のやり甲斐がそこにあると知ってるから。みんな優しくて道理が解ってるから、気持ちが軋むんですよ。
まだ太平洋戦争前なのに、国家総動員法が出て「贅沢は敵」の時代だったんだ。政府は既にアメリカと戦うことを想定して国内の準備を進めていたということだね。…そう考えると、今の政府の動き、やはり不安だ。 #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん 竹蔵さんの亡くなったあの日から小橋家の中で常子だけが「父親」も「父親代わり」もいないまま成長してきて、それが生活が落ち着いてきた今になって、家族を守る以外の自分自身の夢を見失っていそうだったり初恋の人に父親の面影を見ていたりするの本当に胸にくるものがある。
とと姉について。そゆことまったく読み取らず、なかなか執拗に批判してたんだね。と、ちょっと驚いた。たくさんRTもしてるからタグ読んでるんだろうに、パッと見批判じゃないツイっていうだけで、飛ばしてるのかな。
ドラマって解釈が分かれる部分もあるけど、基本的事項というか「これは承知のうえだよね」ってとこが相当部分あると思うんだけど、とと姉はそこすらも少なからぬ人々に読み取ってもらえない脚本演出なんだろうか? そこまでわかりやすくせねばならんのだろうか?わからなくなるなー。
ともかく、基本情報も読み取れないままに見てたら、そりゃわけわからんドラマにしか見えないだろう。いろんな描写がつながらずに、下品とか不謹慎とかの感想しか出てこないだろうね…これは作り手が悪いのか? うーむ。
やっぱ第1週が誤解を招いてる部分は大きいんだろうなーとは思う。
お汁粉デートの会話、竹蔵が既に常子の中で明確な輪郭を失ってしまっている事を示すようで胸が痛んだ。父を亡くした年からしてもその後の年数からしても当然だよなぁ。そうやって少しずつ記憶を書き換えて人は生きていくのに、上書きしたタケゾウを失ったら常子はどうなってしまうのか #とと姉ちゃん
件の営業マンは別の女性社員とも仲睦まじい様子だったと。でも営業マンはたぶん解雇されない。仲良く喋ってるだけで某女性社員とは男女関係はないのかもしれない。でも諸橋さんも劇中で不倫を認めたわけじゃない…たとえ奥さんの誤解でもこんな騒ぎになった以上諸橋さんは首なんだろな #とと姉ちゃん
職業婦人の花形、タイピスト。妹たちを学校にやり、月1のプチ贅沢お出かけも負担して2年半。今や森田屋より実入りがよさそうな生活。そりゃ、家長としての自尊心が高まって無意識のうちに権威になっちゃうだろうなあ。今の常子は「家長」なんだよね。めざしてる「竹蔵とと」じゃなく #とと姉ちゃん
「私たちをクビにするなんて何とも思ってない、代わりはいくらでもいる」 それが会社というシステムであることを早乙女さんは痛いほど知ってるけど、課長にかけあおうとした常子はまだよくわかっていなかったんだね。早乙女さんは何のために働いてるんだろう昨日のフリが気になるー #とと姉ちゃん
「私たちの代わりはいくらでもいる」、会社も国もそれは同じで、タイピスト1人を本日付でクビにするこも、赤紙1枚で兵隊を招集し外地にやることも、上に立つ者には簡単にできる。でも家族内で、家長がそれやったらおしまいだよね。美子の反抗は大事なことを考えさせてくれる #とと姉ちゃん
この段階では君子が強く言えないの、彼女もまた常子の傘の下って感じもあったなあ。とにかく小橋家は経済的に常子に頼ってる状態だからね。家庭内でも「外からお金を稼いでくる人がエラい」って空気になりがちなのは、現代もそうだよね。#とと姉ちゃん
あと、君子がガツンと説教したりしないの、君子自身どうしていいかわかんないけど、娘たちは自分で考えて解決できると信じて見守ってる面もあると思うな。君子についてはこれまでいつも「今は静観している」「今は気づいていない」とか、ハッキリわかるように描写されてると思う。→ #とと姉ちゃん
→実際、親に正論を言い聞かされるより、自分で悩んで考え掴んだほうが確かな血肉になったりするしね。それは竹蔵の方針にも通じる。彼のように理由を聞いて諭して…ができないのは頼りなさでもあるけど、ま、竹蔵はその辺うますぎる親だったし、あの頃は3姉妹も小さい子供だったしね #とと姉ちゃん
タイピストが軌道に乗ってから常子と滝子の接触場面ないよね。常子は家長として自負心を強めるにしたがって祖母への敬意も薄らいでそう。美子が森田屋との食卓で青柳商店の状況を心配してもほぼ無反応だった。美子の勉強を阻む存在としての見方ほぼオンリーになっちゃってるんだろな #とと姉ちゃん
問題提起なら、もっと穏やかで理にかなった方法があったんじゃないかな。脚本として文字に起こす以前に、検討材料として洗い出せたんじゃないのかな。『何気ない日常を大切にする』コンセプトで組まれたシナリオなら、なおさら神経を使わなきゃならん事柄じゃないのかな #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん って、「なにげない日常を大事にする」コンセプトなんだっけ?
「僕を作物だと思ってください」と言ったけど、それで育つのは常子自身なんだろうな。水や肥料をやるように悲しいことイヤなことも含めて言いたいこと言って、泣いて笑える場があることで、人は安心して育つことができる。常子がそんな役割を妹たちにはしてやれてないのと同時に→ #とと姉ちゃん
→そんな安心できる場所を星野に提供してもらってる常子は、星野にも同じことをしてるのかな?ってのと、でも星野は常子に対して話だけじゃなくて心の底では性愛も求めてるんだよね、ってのもある。それは不健全という意味ではなくて、生物として自然な欲求としてね。#とと姉ちゃん
ととは常子が櫓に登ったとき叱ったけど、きちんと何故そうしたのか聞いたよね。そんで発想と行動力を褒めてくれた。そこに至らず目に見える形で残った家訓に拘泥するあたり、本当は常子もととのことをきちんと思い出せなくなってるのかもしれない。常子だって十分幼かったし #とと姉ちゃん
常子が美子の売り言葉にのってしまったのは、常子にとってととの否定は自分の全否定だからだね。ととの代わりになる!だけでがんばってきたから。富江には理由を聞けたのに美子にできなかったのは、家族への甘えと社会経験から頭ごなしに怒鳴られることに慣れてしまったのかも。 #とと姉ちゃん
常子はもちろん至らないけど、常子の心を思うと泣きたくなる。よっちゃんの気持ちもよくわかるのに。 #とと姉ちゃん
「櫛と万年筆買ってあげようと思う」というのもパターナリズムだもんなー。二人はそれが気に入ってるのかもしれないし、「壊れてるから新しいのにしなよ」と言うんだったら常子が拘っている家訓だってそうだよね。 #とと姉ちゃん
ちょくちょく出入りして青柳の内情も垣間見てる美子が、頼まれて役に立ちたいと思うのも自然だし、お駄賃も大事だったんだろうな。買ってもらうのではなく、自分で得た対価で新しい櫛を買いたかったのかも。自立心。それが「お駄賃分はちゃんと働きたい」って気持ちにもつながる #とと姉ちゃん
今、常子が陥っていることはいつの世も誰にでもあり得ることで、とても考えさせられる。一家を養う長、という場合だけでなく、人の間にはパワーバランスが働くことが多く、そのことを深く意識して自分の立ち位置を常に理解していないと知らず知らずに弱者を支配しようとしてしまう→ #とと姉ちゃん
→自分も年長になってきて公私ともに年下や後輩が増えるにつれ、パワーバランスに鈍感であることの罪を感じる。かと言ってへりくだり過ぎてもかえって気を遣わせることになり、場面によってはパーンとその力を上手く使ってあげる方が、自分より弱い人への助けになることもあり難しい #とと姉ちゃん
常子が長女じゃなくて長男だったら、父親代わりになって10歳で喪主を務めるとか、自分は大学には行かずに働いて妹達の学費を稼ぐとか、さもありなんと思ってしまうだろうなと思って、男女平等ってなんだろうと思う。 #とと姉ちゃん
これまで常子の周囲の迷惑顧みず、自分のやり方を押し通す姿を肯定的に描いてきた #とと姉ちゃん が、いよいよ否定的なトーンに転換し始めた。今まで亡きととの「願い」という絶対正義は、ととの「呪い」へと姿を変え、姉妹に暗い影を落とす。面白い。問題は西田さんがどこまで突っ込めるかだな。
#とと姉ちゃん ここ数年AK朝ドラは、「あまちゃん」を除くとヒロインへの感情移入を拒む話が続いている。脚本家の不手際で、意図せずにそうなったものもあれば、意図的にそのようにしたものもある。ここ最近の嫌な常子像には、割と脚本家の覚悟のようなものを感じる。
#とと姉ちゃん 今日の常子の、これまでついぞ見せたことのないような厳しい表情には、そういった作り手の意図を汲み取った高畑充希の、これまた覚悟のようなものが感じられた。試行錯誤し、迷いつつ成長してゆく主人公ではあるが、常子とはこういう人間なのだという覚悟が。
私も2週目のととの思い出話、よっちゃんも姉二人も記憶力凄いなって思ってたんだけど、まさかここで思い出せなくなってるのとの対比の為だとは(>_<)常子の記憶も薄らいでいるからこそ「仕方ないわね、よっちゃんは小さかったから」て当たり前の事が言えないんだよ(T_T) #とと姉ちゃん
とと姉ちゃん。ととは死んだ後に一度だけ家族に力を貸していて、それは常子の話じゃ無くて君子さんの話の解決だった。大体そういう反則技は一つの物語に一回だから、しかも「ととの代わりに」て言っちゃってる常子にはととがあの世から力を貸すエピソードは無いような気がする(T_T)
URL この上から目線は一体、その作品に不満があったら離れるのが一番いいし、自分たちの意見で何か変えたいと思うなら直接ご意見送ったらいいだけでは
うん、まあ、書き方って性格だから、しようがないともいえる。個性が垣間見えるから面白いってのもあるしね、Twitter。
私はこれからも批判も書くしエスカレートして叩きになっちゃう事もあるかもしれない。だから私には叩きたい人達を否定する事は出来ないんだけど、ただ、「批判してやっているんだ」と思うようになったらヤバいと思うよ。叩きってすっごく気持ちよくって陶酔するものだって事は頭に置いておきたい。
そそ。いま気持ちいいんだなーって解釈もできる。
SNSって自分の部屋みたいにも感じるけど、アウトプットした瞬間にある意味「作品」と同じになるんじゃないかな。ドラマや漫画と同じく発言の自由・表現の自由があり、個人的感想だろうが独り言だろうが、公開してる以上それを見た受け手の解釈に委ねられ多様な感想を持たれるのはしょうがないよね
だって、目的や程度の差はあれ、他人の意見に関心があるから作品タグを検索して見てるわけでさ、そもそもタグに感想書きこむなんて、作品見たあと自分の心の中で終われない(スルーできない)人がやってることで。そういう人間が「感想という名の作品」をスルーできるかっていうと…(ええ私も
自分で見たり読んだりしたものについて、面白かったにせよつまんなかったにせよ、自分が感じたことだけで充分。せいぜい家族や友人と話せばいい。って人は、そもそもSNSなんか見ないしやってないし、世の中、そういう(まっとうなw)人が大半なんだよね。
だから人のツイに反応しちゃうのも自分のツイに反応されるのも必然で、どっちもしょうがないことと思うなあ。大人なので節度…とは思うけど、どっちについても過剰な罪悪感も嫌悪感も抱かないでいいんじゃ?っていうか。SNSって楽しくて素晴らしく、そしてろくでもないとこですよ。嫌ならやめようw
ととねと反省会を両方使ってる投稿もあるから、予測変換もあるから、両方わかるって(笑)
反省会タグの中にも、「対象作品についてあまり良い感情は持っていない」共通点はあれど、いろんなスタンスの人がいますよね。たまにしか見ないけど、参加人数が減る分、各アカウントのスタンスが見えやすくなるのは、ええなーと思いますよん
「この作品はダメなやつだ」って感情を優先して見てたら、そう感じるんだろうなー、とか。思い入れがなくて流し見してるんだね、だからセリフや映像の描写を見逃したり聞き逃したりしてるなー、とか。実在の「暮らしの手帖」に超思い入れがあるんだな、とか。いろんな人がいる(私の誤解含む)。
もちろん、毎回15分間きっちり前のめりに見なきゃいけないわけじゃなくて、流し見や飛ばし見や先入観で見るのだって、個人の自由だしひとつの視聴方法。そして、Twitter見てるだけのシロート(私)にもわかるんだから、そんないろんな見方があることをプロが想定してないはずはなく。
女性の解雇問題に『不倫』を挟む。男女差別は『男女仲良く』で手打ちにする。思えば浜松の頃、かかに降って沸いたのは『後妻』ではなく『妾』問題だった。女性の貧困や差別、就職と言う繊細な問題提起を行うのに、なぜ女性そのものを蔑ろにする手段を採るのだろう #とと姉ちゃん
そうなんだよね、前作でも似たような趣旨だったのに、今回の方が非難轟々なのは、きちんと女性の悔しさを書いてるからだと思う。前作はストレスフリーが最重要事項だったから、何事も綺麗に都合よく書いて、趣旨は言葉で説明してた。今作の方が絶対的に正しい人がいないことも含めて誠実だなぁと思う。
つんが前作の主人公だったら「人にもの頼んどいてお礼のひとつも言われへんのだすか!」⇒勧善懲悪視聴者スッキリ☆って気持ちのいい展開にできるんだろうけど、おなごとはいえ権力者側の人間で言いたいこといくらでも言えるあさちゃんと違って雇われ労働者のつんにそれはできない #とと姉ちゃん
つんレベルに扱われて初めて「おなごが働くいうんは大変なこと」っていう言葉に説得力が出るよねパチパチタイプ弾いても誰も「格別なおなごはん」だなんて言ってくれないから、技能を持った小間使いって扱いに抵抗して鉄の女と化したであろう早乙女さんの努力を思うと泣ける #とと姉ちゃん
RTsのように、たとえば「女性の問題」の描き方についても、いろんな意見があるんだけど。
私自身のスタンスを明らかにすれば、「とと姉のように、現実の生きづらさを描いてこそ、性差の問題が容易でなく、けれど取り組むべき問題だと認識される」と思うし、先週の滝子が言った「男女仲良く」がこの作品の手打ち(結論)じゃないことは見てると伝わってくるように思います
で、女性の問題については前作と今作、割と描写の仕方が対照的なんだよね。だからこそ賛否両論あるんだけど、対照的なのが連続して放送されて、賛否両論あるって救いだわね、とも思うんです。狭いSNSなんかでどんな批判があったとしても、まったく違う作風が連続して放送できるって状況はいいよね。
何だか妙な話なんですけど、今作に対する批判を見てたら、前作のあさちゃんとへぇさんの会話、へぇさん「あさちゃんの行動全否定」 あさちゃん「そうだすか。それでもはうちは仲間を増やしていくのが大事と思うんだす」ってのを思い出したりするんだよねw (セリフ内容は大意です)
私もそうだけど、今作が響いてる視聴者もいるわけだしね。それに、たとえ商業作品であっても、大多数に支持される=すばらしい、支持が少ない=ダメ という観点だけでは、測れませんよね。あさちゃんの女子大設立も世間の大半には眉をひそめられたけどそれは価値あることでしたよね
文学者の戦争協力については花アンでもやったようだし今作にも関係してくるかと思うけど。先の戦争中は、戦争を賛美する創作作品が支持され、民衆の好戦モチベーションアップに寄与し、反戦的な作品なんて相当クサされ、やがて封殺されていっただろうけど、作品の価値とは全く別問題ですよね。
戦争やろうぜー!って雰囲気になってる世の中で、戦争すばらしい!って作品を出したら支持されるのわかってるけど、クサされるのわかってて「戦争やめない?」って作品を出さずにいられない作り手もいる。「戦争」を「自己責任」に変えたら、ここ最近の朝ドラにも通じるなって思ったり。
要は、「批判されてるから反省する」「できるだけ多数に喜ばれるものを」もあるでしょうが「批判されても反感もたれても、こういうものを作りたいんだ、今、世に出したいんだ」って姿勢も、創作作品では全然ありだと思うし、とと姉ちゃんってそういう話じゃないかと思い、私はそんなとと姉が好きです
今この社会で内面化されてる規範に疑問を持たせるような描写をすれば、戸惑いや批判が出るのは必定なんだよね、歴史を見たらいろんな活動や創作作品がいったんそういう反応をされて、あとから評価されてる
とと姉ちゃんがそんな名作になるかどうかは勿論わかんないけど(笑)、私は、昨今AK朝ドラが叩かれがちなのは、脚本演出に拙いところがあること以上に、一般に内面化されてる規範に対して疑問を呈する作品が続いているから、ってのがあると思ってる。逆にBKは規範に沿った物語で支持されてる。
AK、BKって区別するのもいいかげんナンセンスでしょ、って思いもするんだけど、やっぱり東京って腐っても東京というか、進んでるんだなーと思うとこある。てか、まれであんだけ(一部に)叩かれて、直後のAKが、今、こんなとと姉ちゃんだからね、そこに意思がないと思う方が不自然じゃないかと。
あまちゃんだって、クドカンはもちろんPとDの手腕がすごかったのは大きいけど、それでも当時のTLでは春子が毒親といわれたり、やりたいことがころころ変わるアキや、視野狭窄のユイちゃんがクサされたりもしてたんだよ。でも私はそういうところこそがいいなって思ってた
親がちゃんとしてなくても子どもは生まれ、自己肯定力が低くても、将来への確固たる意志がなくても、その場その場でふらふらしながら揉まれながら、周りに助けられたり助けたりしながら、やがて自己肯定していったのがアキ@あまちゃん
「どんな親でも」「どんな環境でも」「正しくなくても、迷って間違えて迷惑かけながらでも」ってのを、ここんとこのAKは描き続けてるんだよね。
すごく注目される枠で、保守的な、それこそ規範を内面化しまくった視聴者も多いのが分かってる枠で、あまちゃんほどの脚本演出統括力がないにしても、AKが繰り出してくる作風は、物語の作り手・提供サイドとして誠実だなーと思っているのです
はぁぁ。昨日今日と、高畑さんの演技が光るなあ。惹きつけられる。#とと姉ちゃん
自分の気持ち、相手の気持ち、家訓の意味、女性の役割や進む戦況をどう捉えるか。何ごとも、「本当のこと・大事なこと」に目を向けて、考えて、言葉にするのって難しいねえ。みんな、本当に言いたいこと言えてない。・・・って、星野が言ったあぁ! 星野やったあぁ! #とと姉ちゃん
家訓の言葉の額面に家族が縛られ、家長の権威にとりつかれてる常子の言葉や、反抗期(それは精神的自立への過程でもある)美子の刺々しい言葉によって、家族関係が悪化して。先週土曜の星野くんが「間違った言葉遣いこそ乱れにつながる」と言ってましたよね。#とと姉ちゃん
不倫の件も、妻が「泥棒猫」と乗り込んできて「やりかねない」「他の女性とも仲良かったわね」と言葉で語られ、諸橋が退職を報告。劇中すべて言葉で済まされてるんだよね。不倫が事実だったのかどうかはわからない。そして事実じゃなくても多分結果は同じ。言葉が現実を推し進めてる #とと姉ちゃん
課長の「しょせんタイピストなんて」「女の役割は子を産み…」は、まさに当時の社会規範・性別役割規範が内面化された言葉だったよね。規範って幼少期から教えられ日常のそこここにあって深く内面化してるものだから、当然として疑いもしないんだよね。常子の家訓もそうなってるけど #とと姉ちゃん
課長の言葉に女性社員たちが憤慨したのはわかるな。当時のタイピストに「私たちが新しい道を作ってるのよ」って意識や自負があるのは自然。仕事を経験せず家庭に入る大半の女性たちとは、性別に関する考え方も違う #とと姉ちゃん
今日の君子さんはまさに「お父さん(夫)に対してなってない口の利き方をする子供を叱るお母さん(妻)」で、あーあ、とw 子供たちの問題なら見守れるけど、一家の大黒柱を貶められるのは諌めなければっていう「母親の役割規範」に縛られて、これもまた彼女の本当の言葉じゃないよね #とと姉ちゃん
過激な言葉を重ねれば重ねるほど憎しみが増していって現実に波及する、ヘイトスピーチとかもそうだよね。ドラマに対する批判もそういうとこあるんだろうな。自戒も込めて。#とと姉ちゃん URL
常子の今の状態が、完全にATM扱いされてる現代のお父さんなんだよね。会社であんな騒動があったばかりだから、一見問題がなさそうな家庭に目が行かないのは仕方がない。でもこういう目が行き届かない時に、トラブルは起こる #とと姉ちゃん
なんとなく、常子が男性だったら、「家族のために一生懸命働いてるのに、理解しない娘が悪い」って感想が増えそうな感じがするんだけど、そんなことはないよね……?
「お前たちの代わりは掃いて捨てるほどいる」と尊厳を傷つけられながら寝ずに働く常子が、そんな苦労を知らない妹たちに「好きに生きて(=ウザいから束縛すんな)」とオブラートに包んだ言葉で勝手なことを言われてるのが泣けるな。やはり「お父ちゃん」の側に感情移入してしまうのう #とと姉ちゃん
「私が誰のために働いていると思っているの」その台詞言っちゃうと、常子さんの全てが台無しになるのよ。簡単に書かないでほしい。 #とと姉ちゃん反省会
簡単に書いてるのかな? 簡単に書いてる、と解釈したってことだね。うん。
「誰のために働いてると思ってるの」最近お互いにこじらせてて、売り言葉に買い言葉で「それを言っちゃあおしまいよ」ってなことを言っちゃったー、決定的なとこまできちゃたよーっていうわかりやすい描写。月曜から、常子そのうち言っちゃうだろうな、って匂いがしてたよね #とと姉ちゃん
結婚の先にあるのは、「子を産み育てる」で、(星野はそんなことから解き放たれたキャラであるけれど、この時代の一般論で)今 とと姉として家長制度の父としての歪な役割を一身に負って足元が揺らいでいる常子の次の選択肢が母だというのがもう…。攻めてるなぁーと思う。 #とと姉ちゃん
初任給から2年、「ナレ成長ですかい!」と批判もあったが、月曜日からのっぴきならない状況が展開されて、意識的・無意識的にかかわらず、「ああ、タイプ室でだんだん認められていく様子よりも、こちらが描きたかったのね」と惹きつけられた視聴者が多かったものと推測される。
ナレーションであっさり飛ぶところは、要は作り手が「ここの詳細は必要ない」とか「スキップした方が劇的」と判断しているわけで、前作ではあさちゃんの仕事関係もばっさりそれをやられていた。なんたって銀行設立がほぼナレーションだったのだから、それに比べればタイピストとしての習熟過程がすっとばされるのなんて序の口ではないかと思うが、今作の方が批判が多いように見えるのは、作品全体としての満足度が低い視聴者の可視化でもあり、それだけナレーションでスキップするまでの過程を描きこんでいるからでもあるだろうな。そこでハシゴ外す?という気分にさせられるという。で、そんなふうに、わかりやすく綺麗で社会通念的に正しいような結論を出してスッキリさせてくれないから全体としての満足度が下がる、と。
全体としての満足度が下がると作品への信頼感を持てないから、次にどんな描写やどんな展開が出てきても懐疑的・批判的な目で見ることになって、そうすると画面やセリフで示されている情報を取得しそこねたり、曲がった解釈したりすることも出てくる。「不満」「批判」という観点に見方がより引っ張られていくというか。でもどんなふうに解釈するのも自由なんだと思います。そういう個人の解釈を見て、「ああ、この解釈はいただけないなあ」と個人的に解釈するのがSNSで、どこまでいっても主観の世界になりがちなのですよね。自由とは、誰かに客観的に絶対的に正しいといってもらえないものかしさでもある(笑)。
さてナレ成長の末に今週何が描かれたかというと、「一人前の給料もらって家族を養えるようになった結果何が起こったか?」という、とと姉ちゃんへの反発やモチベーションの揺らぎ、そして結局「とと姉ちゃんとは何か? それやる必要性ある? 本質を見失ってない?」という話で、先週のタイプ室騒動がかわいく思えてくるぐらいに主人公にシビアなものをつきつける脚本なのでした。登場して間もなくガンガン姉を責めたてる杉咲花ちゃんの演技も迫真だったが、母親に「怖い顔」と評される高畑充希の表情! 今週は彼女の演技の真骨頂を見られそうだ、という予感で胸が高鳴る。
ドラマの作り手の「とと姉ちゃん」たるものへの踏み込み方は生半可ではなくて、そこにフォーカスがあたったとたん、女学校や職場の諸々はあっさりと後景化してしまう。それは常子の視点そのもので、彼女にとって何よりも大切なのは家族(や今週の場合、星野との関係)であり、考えてみれば私たちだってそうかもしれない。学校や職場でのゴタゴタなんて、家族内に一大事が起きたり好きな異性との関係に変化があれば、二の次・三の次になるものだよね。
先週のタイプ室騒動があまりに有耶無耶で、上司の鶴の一声というあまりに後味の悪い結末になったのは、やはり「問題は棚上げされている」表現だったのだなあと週をまたいでわかる展開。キャラメルおじさんや部長のように「わかってくれる人もいる」けれど、それが(家族や個人同士の関係レベルを超えた、社会システムや社会通念が関わる範囲まで広がった問題の場合)簡単に抜本的な解決をみないのはこのドラマの特徴であり誠実さだと思うけどスッキリしたい・明るい気持になりたい視聴者には不評。朝はトイレでスッキリ出してから一日を始めたいみたいな感じ?
早乙女さんがデレたのは不可解な表現ではない。「常子の考え方は理解できない、けれど、理解できないものの存在を認める」というスタンスを彼女は先週はっきりとあらわしていた。未熟でも、会社の空気に染まらず集団の意地悪にも早乙女自身の不親切にも負けず(早乙女の行動にも確かにイケズさはったのだ、そこ重要)、自分で考えて黙々と手を動かし自分の意見をちゃんと言える常子をじっと見つめ、一目おくようになったのは先週の描写だけで十分わかった。
「世の中には自分に理解できない考えで生きている人がいる」「簡単に理解なんかできないけど、理解できないものの存在を認める、認め合う」早乙女との出会いからプロセスで描かれたのはそれだ。
不倫騒動のポイントは、「1.不倫の事実があったのかどうかわからない」「2.女が主体的に生きようとした場合のひとつの顛末」だと思う。
「1」はツイートもしたように、「不倫があった」という妻の推定と、「諸橋ならやりかねない」という女子社員たちの空気と、騒動の責任を女子社員のみに負わせる裁定とそれを受け容れる(受け容れざるを得ない)諸橋、という展開だった。本当のことはわかっていない。本当じゃなかったとしても、奥寺妻がこういう言動に出た以上、結果は変わらなかっただろう。
「2」は、諸橋は国家総動員法下にあってもパーマをやめず彩り豊かな弁当を食べて、新しい女性像を体現する自分でありたいと明言していた。奥寺との関係が恋だったのか、2人がどういう関係だったのかはわからないが、好もしい男とは親しくしたいというスタンスが彼女にあったのは間違いないだろう。そうやって「主体的」であろうとした彼女に与えられたのは一方的な解雇だった。男には社会的なお咎めがない一方で、彼女は仕事を失い、それにしたがって社会的信用も失い、いわゆる「まともな結婚」への道も厳しくなったのも容易に予想できる。「一人前に給料をもらって家族を養っている」自負を強めている常子にとっても、そんな立場の危うさを思わせるに十分の痛い一発であり、この現実を早乙女がとうに理解していたことも描かれている。また、主体的に生きることが孕む他人(今回は奥寺妻)を傷つける問題も示唆されていたと思う。
女性を取り巻く問題を扱うために、(不倫で破滅する女性を描くとは)女性を貶める描写をするのは拙策ではないか、という意見を見た。問題の深刻さ難解さを描くために問題を明示するか(それは必然的に見ていて痛々しい描写になるだろう)、あるいは前作のように、素敵な夫に支えられたり、家が破産しても字が読めなくてもちゃんとそれぞれの場所で幸せになる姿を描きながら「女が働くのは大変」とセリフで示すかは作り手のスタンスの問題であり、受け手の好みの問題かな。どちらも必要なのかもしれない。
私としては、後者では慰撫の役割(しかも現状を甘受したうえでの)しか果たせないのではないかと思うけど、TLを見ていると朝ドラに慰撫を求める層も決して少なくないようで。ともかくも、まったく違うスタンスの作品が連続して放送されている状況は、どちらか一方しかないよりフェアな状況のようにも思える。