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『ピエタ』 大島真寿美

 

ピエタ (ポプラ文庫 日本文学)

ピエタ (ポプラ文庫 日本文学)

 

 

私は連続ドラマを見ているが、どの役者がどんな役を演じて、ジャンルは何で、どういうストーリーが展開されていくか、事前情報が充実した時代になって久しい。なるべくシャットアウトしようと思っても、テレビでは番宣があるしSNSにもバンバン流れてくる。大河や朝ドラともなると、キャスト・スタッフの発表など情報もひとつの娯楽コンテンツとして楽しんでいるし、放送が終わればSNSで人の感想を漁ることもできる。そうすると、作品のテーマはとか構成はみたいな話も出たり。

この『ピエタ』を読んでる間、そういうのとはまったく無縁で、純粋に物語を味わう喜びにどっぷり浸った。読み終わって本を閉じると、自分の周りの世界の色が、何だか少し違うみたいな。まったく違う人生を早回しで疑似体験したみたいな。

登場人物たちにも作品の世界にも、共感はないし憧れもない。感情移入しながら読んでいるというわけでもないんだけど、とにかく惹きこまれて、次々にページを繰っちゃう。「この人生が始まったんだから、この人生を生きるしかない」って感じ。

1人の天才を巡る物語である。一行目で、その天才作曲家ヴィヴァルディの死が告げられる。遺された女たちの中で最初に出てくるのが、主人公のエミーリアと、天才的ヴァイオリニスト、アンナ・マリーア。2人は、18世紀のヴェネチアの慈善院ピエタに育ち、中年期の今もそこで暮らしている。

アンナ・マリーアのほかに、人気と実力を兼ね備えた歌手もいる。伝説の高級娼婦も。彼女たちが「天才的」の名に恥じぬ風格を感じさせるのがこの作品のすごさのひとつなんだけど、であればあるほど、凡人たる読者の私には遠い存在である。繰り広げられるのは、自分に何ひとつ交差するところのない物語。でも何か、とても慕わしく感じる。好きというのとも違うけど、読んでいるときはこの人たちが本当に近くにいて、この世界の中で生きているように感じる。

最初の舞台となる慈善院。親に捨てられた子どもたちを養う場所。主人公のエミーリアがそこに来るまでと、その第一夜は、今この感想を書くためにちょっと読み返しただけでも泣ける。本当に短く、簡潔に語られているのだが。

親のない子どもたち。その世界では、誰もが天涯孤独の身の上だ。でもその第一夜に、泣いているエミーリアの手をアンナ・マリーアがそっと握る。話しかけ、歌を歌ってくれる。人はひとりきりだから、手をつなぐ。つながり合おうとする。音楽がその思いを媒介する。幼いころから優れた音楽的資質を発揮するアンナ・マリーア。慈善院ピエタでは音楽院でもあって、運営資金を寄付のほかに演奏会の収益でも賄っていた。そこに登場するのが、新進気鋭だった天才作曲家、ヴィヴァルディである。まだ若かった彼が快活に子どもたちに音楽を教え、すらすらと譜面を書いていく場面のきらめき。

天才のまわりには才能ある人間が集まるもので、ヴァイオリニストに歌手、傑出した美貌と教養を持つ高級娼婦など、輝く光の周囲は明るく華やかだ。さらにその周囲に、慈善院の事務方を請け負うエミーリアや、歌手のうんと年上のマネージャーや、ヴィヴァルディの資力で養われていた妹たち、音楽センスはまったく乏しいが幼いころから慈善院に出入りしていた大貴族の婦人などがいる。光は明度の違いや、目立たない影の部分も含んで、さまざまな層をなし、ひとつの大きなゾーンをつくる。

もちろん世界はさらに広くて、「世間」や「現実」という名の広い世界の前に、光も毀誉褒貶に晒され、翻弄される。永遠はなく、命は尽きる。残された者たちは、光の消失に影響を受けざるを得ない。支持者を失い役を解任される者、道をあきらめる者、生活にひっ迫する者。足掻いて、藁にもすがろうとする。

エミーリアはヴィヴァルディの謎を追ううちに、新たな人々と出会い、世界を知る。親に捨てられた彼女にとって人生は否定から始まっていた。聡明で、慈善院のスタッフとして確たる居場所を得ていても、欲求や希望を持ち得ない空虚さが彼女の中にある。誰と出会い何を見ても、それは最後まで、根本には変わらなかったかもしれない。ヴィヴァルディが遺した謎の楽譜が何か事態を決定的に変えることもなく、ただ時間は過ぎてゆく。天才の名声が廃れ、慈善院の経営が傾き、人が老いや病から逃れられない中で、エミーリアのように影の存在である人々が思いがけない奮闘もするが、それでも流れを止められはしない。

天才に導かれた物語でありながら、物語の終わりには、どんな人間も同じなのだという感慨が生まれる。不世出の天才も、稀有な才能に恵まれても・そうでなく凡々とした人間も、人は一人で生まれ、年月の川を流れてゆき、やがて一人で死ぬしかない。だからつながり、交わる。慕わしい音楽に集まり、思いを乗せる。人生でいくつか巡り合う奇跡のように輝かしい場面の記憶も、人の命とともに失われ、天才が作る音楽も、永遠とはいえないだろう。それでも私たちは、命を、音楽を尊いと思う。いずれ失われるからこそ大事なものを抱きしめたいと思う。抱きしめて、その喜びに震えるのである。

 

追記。
当時のヴェネチアの政治や文化についても、(本題から外れないために)踏み込みすぎない描写ながらも雰囲気がよくわかる書き方をされていて、逆に、そのころのヨーロッパ情勢を勉強したくなりました。

さらに追記。

「本屋大賞3位!」って帯に大きく書いてあったので、この年の1位何よと調べてみたら、『舟を編む』でした。な、なるほど。