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『四百字のデッサン』 野見山暁治

 

四百字のデッサン (河出文庫)

四百字のデッサン (河出文庫)

 

 

好きなエッセイがまたひとつ増えた。

野見山暁治、という人を名前くらいしか知らなかった。本書の前半「ひとびと」と題された章で語られるさまざまな人のことも、ほとんど知らない。だけどそれぞれに惹きつけられた。ほとんどが故人や、もう会えない人について語るのに、筆者はその事績あるいは人柄を称える美辞麗句を並べない。好悪の情すら薄い。ただいくつかのエピソードによって彼らの輪郭が見えてくる気がする。

もの淋しさや寄る辺なさ、とっつきにくさを感じる人が多い。筆者は「愛すべき彼ら」とは描かない。一貫して、筆者と対象の人物とは距離がある。そして彼らは「ひとりひとり」である。まさにデッサンをするような手法で書かれた人物エッセイかもしれない。その距離感と捉える角度に筆者の感性が感じられ、彩色まで施すのではなく素描にとどめることでかえって際立つような彼らの孤高が、読んでいてとても好もしく感じる。

後半「うわのそら」では、前半にもまして思いつくままにといった風情で書かれる散文が魅力的。文章や構成がうまいとか個性的とかまったく気にせず書いているような自由さがある。

そこここにあるのは、戦争。筆者は美術学校を半年早く卒業させられた学年で、同年に入隊し、ソ連国境近くで病気になって、満州、内地と病院を転々として、終戦を迎えている。同室の、同じく病人になった兵隊が次々に死ぬのを見、福岡大空襲で陸軍の兵営(もと福岡城内だ)が焼き払われたあと指令部の実家への駐屯(!)も経験している。そのあたりの文章は淡々としながらも迫力がある。

戦中戦後に絵を描く青年たち、画家を志す青年たちがいたのだなあと思った。『戦争画』と題されたエッセイがある。二等兵として徴兵された外地で病を得て送りされて療養生活を送る筆者は、父から戦争画を特集した雑誌を見せられる。第二次大戦が始まると、軍は戦意高揚の目的で、名のある画家たちに戦争画を描かせた。美術学生にも、いろいろな戦争画展に出品するよう呼びかけられた。

1ページ1ページめくってゆくうちに私は、この病気が永久に治らなければいい、と次第に願うような気持ちになっていた。

だいたい戦争画というのはおかしいじゃないか。平和画とか生活画とか言わないのに何だって、これだけ戦争画だけがあるんだ。作意がありすぎるよ。戦争というものは人間の営みの中で間違った部分なんだ。そりゃ人間の歴史はほとんど闘いの明け暮れかもしれん。それをテーマにしても一向にかまわないが、それだったら女神が旗をかざして走ったっていいじゃないか。日の丸ばかりがいつも強くて相手は腰抜けなんて、そんな絵が描けるか。

一途に聖戦と思いこんだ画家と、聖戦をあげつらうことによって世に出ようとする画家と、中国や南の島に出かけて絵が描けることを喜んでいる画家と、こうでもしなければ画家の命脈を断たれるかと心配している画家と、思いはそれぞれ違っていても、ともかく画面上の日本軍隊は一様に勝者の栄冠をいただいていて、けなげな姿だった。

 

画家を志した青年たちは、心の内はそれぞれ違っても、みな一様に戦争画を描き、描かない者は活躍の場を失い、描いても描かなくても多くが戦争に動員されて、死んだ。その中を生き残った青年たちが、食料に事欠くような誰もが貧しい戦後で、また描いた。描いた中でも成功するのはごくひと握りの人間で、世に出ることなく消える者がほとんどだっただろう。

筆者はそれでいうと「成功した画家」になる。昭和27年から12年に渡って、彼はパリに滞在して絵を描く。その時代にパリへ行ける日本人がどれだけいたことか。けれど、パリでの生活や出会った人々を描いた部分にも、誇らしさや輝かしさは微塵も感じられない。それは謙譲の美徳などというものではなく、筆者は戦中戦後の時代と、絵を描く青年たちのコミュニティの虚無感こそをずっと抱え続けて生きてきたのではないかと思わされた。

このエッセイが書かれた昭和50年代半ば、筆者は旅をしている。美術学校を出てすぐ出征し、そのまま帰ってこなかった画学生の絵画作品や遺稿を収録した本を作るための旅である。故人の母や兄を尋ね、筆者が最初に問うのはどのような状況下で死んだのかということだった。それに対し、遺族は「なぜあなたは生きているのか」と尋ねる。

死者の家では、同じ状況下で生きている人間に不審をいだくのは当然だろう。私は逃げ回って生き延びたわけではない。しかしこの問いは真実だ。死者を前にして、今、生きていることの責任を問われていることを私は自覚した。

 

 

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