『真田丸』 第16話 「表裏」

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大坂城の様子が本当に容赦ない (((;゚Д゚))) どこ切り取っても不穏。

三成の家で酔っぱらってクダ巻いて寝てたかわいい清正は、「自分で考えて」茶々が気に入った男を井戸に突き落とす。「喜んでほしいから」という純粋な気持ちが凶行に走らせるというのは(たとえば岡田以蔵もそういう文脈で描かれることが多い)古典的で、つまり普遍的な悲劇設定のひとつだなあ。

西国大名家から来る人質の世話を頼まれた北政所・寧が、心底困ったなあ、不安だなあという顔をしたのも印象的だった。秀吉が好きで、役に立ちたい、役目を果たしたいと思っているけど、「私にできるでしょうか」が本心なんだなあ。家族(血縁+姻縁)のおっかさん、ぐらいが彼女の采配や愛情の範囲の適性規模なんだな。同じことを(まぁ徳川家はまだ大坂ほど大きくないけど)涼しい顔でやってる阿茶局との対比が残酷。

いろんな不穏について、「もとは中村の百姓。えらくなったけど、みんな、心がついていってない」と秀長が核心を突く説明をした。秀長が不穏さとは無縁な立派な人物設定なのは、間もなく退場するからなんだよね・・・。本当に容赦ない脚本。清正も寧も秀次も、みんな、こんなにえらくならなければ、かわいい人たちなんだよなあ。大坂城でなければ。

「心がついていかない」とか「俺は俺でいっぱいいっぱいだったのだ」みたいな、ことさら時代劇らしからぬセリフを使うのはわざとなんだろうなと思う。それは現代に寄せているというよりは、「普遍的な人間劇」であろうとしているからじゃないかな。戦国の面白さ、歴史ドラマならでは面白さもあるけど、「歴史というのは普遍性を含んでいる。そこもまた、大きな魅力のひとつなんだよ」という三谷さんの意思を感じるような。

だから、今作の言葉遣いは確かに重厚さや格調高さには欠けるんだけど、それが歴史ドラマとしての瑕疵になってないというか、むしろ本質的には歴史の面白さを伝えてくれてるんじゃないかな。と、歴史好きは感じてるんじゃないかな。言葉遣いにクレームつけてる歴史好きをTLで見かけたことがほとんどない。もちろんその他の面でも魅力がたくさんだからでもあるけど。

信繁だけじゃなく、きりちゃんまでが大坂城にどっぷりつかってるのが不穏でしょうがないですよ。「おそばにいたいんです」とストレートに言われて「いなくていいって言ってんだ!」と答える信繁くんはデリカシーのかけらもないですが、それだけ大坂城の不穏を感じ取ってるから、きりちゃんをここから離したいんだよね、本能的に。

「家康は、秀吉から真田討伐の許可が出るのを待っているのでは?」お兄ちゃん、めっちゃビンゴです! 的確に情勢を読んでる。あんまピンときてなさそうな昌幸が哀しい。「おもしろい」「全然面白くない!」俳優・大泉洋の存在はでかい、役割は大きいなあ。で、こんなふうに正しい分析ができる「名将・お兄ちゃん」が出す答え=正解が、奇しくも前回の昌幸パパと同じく、「源次郎に頼るしかない!」なんですよね。

その源次郎はというと、秀吉に翻弄されて(秀吉自身はそんな気すらないんだろうけど)大坂城ラビリンスで迷い、あろうことか茶々に邂逅! ミステリアスな引きである。この、どこを切り取っても不穏な、ついていきたい要素の一個もない大坂城、秀吉がいなくなったあと砂上の楼閣と化す大坂城に、いずれ信繁は残るんだよね。何でよ?! ほんと、私の中で世界七不思議のひとつに入る勢いになってるわ、今。



昌幸の老いというか時代から取り残されていく様子(まあ、老いていく一方じゃないと思うけどね!)も、秀吉の老いと破滅も、執拗に描く脚本だと思うんだよね。若者たちの群像だった新選組的「切なさ」よりももっとハードでシリアスな脚本、50代になった三谷さんが書きたいのはそれじゃないかと思う。老いや破滅や敗北の果てに、どこかに希望を見出す脚本だとは思うけど(だから、“性善説”信繁が主人公なんだと思うから)。

てか、全方位的に容赦ない脚本すぎて、これを時代劇的に格調高いセリフ遣いでやったらしんどすぎて見る気なくす人が続出するわ、って話でもある・・・。



今の「真田丸」は父と子の関係性の対比がとても多く、それはテーマのひとつなんだろうと思うけど、、信繁も信幸もまだ若く、これから新たな妻を娶ったりするので、やがては夫婦関係の対比や、母と子の対比も見られるようになるのかな、と思った。

 

 

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