『あさが来た』 第22週 「自慢の娘」 みんなと違う意見、作品への批判の意義、支持と評価の違い
クランクアップしたとのことで、おめでたい。毎年、朝ドラと大河のクランクアップの記事や画像を見ると、本当に特別な仕事だなあと思う。伝統枠の主人公(や、その相手役)に選ばれ、長く、ハードで、濃密な月日を過ごす。その消耗と充実感は経験した人にしかわからないものがあるだろう。大河も朝ドラも、主人公(とその相手役)はふつう、人生で一度きりしかない。だからこそすばらしい作品を用意してほしいなって思う。私はあさ来たの内容には懐疑的だけど、とにもかくにも世間の支持を得て惜しまれながらクランクアップを迎える波瑠さんや玉木さんを見ると、心から「おつかれさまでした、良かったですね」としみじみ思えてくるもんである。
さて今週はTLで(あさ来たとはまったく別件だけど)「好きな作品を批判されること」の話題が出てた。ツイートしたように、私は、その人がちゃんと見て持った感想なら、称賛も批判も本質的には同じじゃないかと思ってる。作品にとってもっとも大事なのは「コミットメントされること」であり、「作品が誰かにとって/世の中にとって何らかの影響を与えること」だろうと思うから。プロの作り手は批判なんて当然あるものとして、そんな次元を超えたところで作ってると思う(と信じたい)。それは『龍馬伝』での仕事を記録した柘植伊佐夫の著書『龍馬デザイン』なんかを読んでもわかる。
とはいえ、自分が好きなものを批判されたらそりゃ感情的にいい気がしないのも自然だけど、だからといって「批判は他所でやれ(作品タグをつけるな)」っていうのはよろしくない方向だと思ってる。それが当然にまかり通るようにはなってほしくない。ただでさえ、昔からムラ社会の文化がある日本、しかもどんどん排他的になってる世の中だ。
あと、作品にしても人物や政策にしても、それらが大多数に支持されることと、それらの評価とはまったく別問題なんだって、意外と見落としがちなのかな?と思った。ナチスも選挙で支持されたのだし、戦時下の日本で戦意掲揚の新聞記事や作品がもてはやされたことを考えると明らかなんだけど…。“大本営”の介入やプロパガンダがあったとしても、銃をつきつけられるまでもなく、生活苦や、世情の閉そく感から、そういうプロパガンダにあっさり乗って熱狂していってしまうのが、しがない生活民である私たちの常で、「ドラマ」のカテゴリのブログでこんなこと書くの大げさにもほどがあるようで、戦争以外でも、社会の変化って小さなことの積み重ねだとも思う。
だから、ドラマでもマンガでも何でも「楽しんだもん勝ち」ではあるけど、好きなものが楽しめる世の中を維持するため、作るためには、批評意識も大事なんだろうと思います。ネット時代で「1億総評論家」っていうのは批判的だったり揶揄するフレーズとして使われがちだけどね。
みんなと違う意見、少数派の意見でも、声を上げやすい社会。排除されない社会。それが「多様性ある社会」につながる。いろいろなことに通じる問題だと思います。
まぁその辺のこともいろいろツイートして以下に記録してるので、これ以上の重複は避けまっする。
「ご機嫌ななめさん」(←こういう言葉遣いがこのドラマの ”やらかい力” ですな)な新次郎が亀助に八つ当たりするの、彼らしくキュート(呑気)ではありつつも「年とると気難しくなってきて厄介なんだよねー」って感じが出てて玉木さんの加齢演技さすがだなと #あさが来た
#真田丸 の登場人物は戦国乱世を必死に生きてるのにどこかのびのびとしてる。悲劇の最期を迎える人もその人らしさを全うしてる。#あさが来た はゆるふわファンタジー世界なのに視聴者に嫌われないことや作劇(作為)の都合に縛られて登場人物が窮屈そうに見える。千代と宜は生き生きしててほしい…
あさちゃんの綺麗な40代女性な感じはリアルやなぁ。若い頃より眉の描き方が少しづつ薄くなり顔色も血色いい桃色肌から40代の少しくすんだ肌メイクに変わり唇も赤味を抑えてる。皺は・・貼り付けたらせっかくの表情が消えてしまうし、40代ってそもそもまだそんな皺々とちゃうわなw#あさが来た
>RT ほんに、ほんに。メイクの匙かげんが本当にうまいなあと思う! 見惚れる―。そして波瑠さん自身が年を重ねていくのもなぜか楽しみになる。さぞ美しい40代になられるであろうて #あさが来た
へぇさんが藍之助にごはん食べさせてるのは当然今後の布石だろうが、支配人が特定の行員(しかも役員の身内)にそういうことするのはいかがなもんかと瞬時に思った私は会社員マインドね(TLでは殆ど指摘がない)。大勢の行員の中には藍之助と同じくらい貧しい子だっているだろうに… #あさが来た
あおいと萬田さんの演技はさすがなんだけど、山王寺屋あきらめてくれ、から今日のくだりまでの作為ぷんぷんの作劇には辟易。#あさが来た
眉山家、せっかく自然な作劇で来てたのに、(たぶん)お菊さん退場間際にこれ。残念である。山王寺屋あきらめてくれ&藍之助は自分のために勉強した、もひどかったし、惣兵衛育ててくれてありがとう&山王寺屋よりあったかい、も趣味の悪いセリフ…はつと菊にはもっと自然な形で帰結してほしかったな…
お菊さん(;_;)。私は、最後まで意地悪ばばあのままで惣兵衛とはつを時々困らせ、プライド高く欲深く、古き良き夢を抱いたままで、栄達さんと孫達に愛されて逝って欲しかった。でも、違うんだろうな。現実受け入れてはつさん上げ上げで終わる脚本なんだろうな。#あさが来た
あと、再登場してからの亀助が不憫でならない。以前にもまして、かわいくておかしくてあさたちに振り回される女子力キャラの役割でしかない。ほんと、登場人物を尊重しないドラマだなって思う。
正直、進路押し付けエピソードやるのが遅すぎるというか、先生から聞いた進路という言葉に夢を膨らませ千代にピシャリとされる→藍之介の進路問題で親と子の思いの違いを実感する、というエピソードであささんは何もこたえてなかったんだ…と思っちゃうよね。 #あさが来た
RT あの女学校時代の、謎の時代感の父兄面談から何年経って、どれほどのエピソード挟んだよ?て話だもんね #あさが来た
子どものためを思って、はイカンよね?。 こんな時代にお茶淹れてくれる夫すばらしい。虐待は連鎖するけど愛が絶ちきるよね?。今日も、類型的な作劇に紋切り型の感想が並ぶなあって
後半になってとみに、物語の醍醐味がほとんどないというか、物語のていをなしてないドラマだなって思う。それが朝ドラってものかー。せめて千代宣はのびのびやってほしいもんだけど。
今日の『あさが来た』の萬田久子と宮崎あおいのシーンを見て、ああ、日本だとやっぱりこういうセリフでわかりやすく和解させるのが無難なんだろうなあと思ったわけです。
RT ま、映画と朝ドラを比べちゃ朝ドラがかわいそうかもしれんけど、でもめ以子と和枝や、糸子と玉枝の対立からの帰結も、朝ドラでは見事だったからねぇ。深い納得感があったよ。
部下に対して「ひとの器いうもんは」と説教はしても、妻が母親としてこどもの話をきちんと聞かないことには何も言わない夫であり父親の新次郎。は、微妙な男性像だなあ、どの層に向けたキャラクター像なんだろう
栄達さんもそれっぽいけど、あきらかに「先送り体質」な新次郎さん
新次郎にとっては加野屋に #あさが来た ので、悠々自適の「座ってればいい」新婚生活のときのおもての仕事、老いては相談役という椅子なので。まあ、あさのやることなすことには文句つけないのも、アリかなあとも思う
雑誌コバルトも休刊するらしいけど、コバルト文庫も「姫・嫁・魔法」な話だらけになってると聞いたのはもう10年近く前かな。
多くの支持があるから良いものなんだっていうのは暴論だし危険すぎる価値観なんだけど意外に常識化されてないんだろうか?
ただ、物語自体を楽しむことへの関心が落ちてるのかなぁと思う。前も書いたけど映画ですら物語というよりは体験型アミューズメントパークに近づいてるわけで。体験とキャラクターに偏ってて、本筋であるはずの物語が付随物になってるというか。まぁ、過去作でやり尽くされてるってのはあるけど。
あさが来た見ると結構がくーっと、暗然としてくるんだけど、同時期にめっちゃ物語してるドラマが複数あってホッとするわー。真田丸、ちかえもん、わた離、いつ恋。自分が見てなくてもTL見てると物語の醍醐味がたっぷり詰まってるのがわかる。物語が死んだ世界で生きて子育てするのはつらすぎるもんね
承前RT〉私も好きな作品批判されるのは嫌だが、批判する事がいやなら批判する事を批判するのもどうなのよ、と毎回のように思うわ。自分が常に被害者とは限らんのやで。
批判に対して嫌なら見るな、とはよく返されるものだ。しかしそう主張する場合、批判を見たくないならネットを見ない、他人と作品を語り合わないという「嫌なら見るな」に該当する行為もある。自分がやらない事を他者に求めるのかね。
私は作品を見て(読んで)なされるものは、批判も称賛も本質的に同じだと思ってるんだけど。
ブログにも書いたけど、毎日批判してヒマだねとか非生産的みたいに思うのも無理はないが(笑) 批判するのも当然ながら当該作品へのコミットメントだもんね。私なんてあさ来たにめちゃくちゃ深くコミットしてる人間よ。好き嫌いとコミットメントは違うんよね
私は真田丸やちかえもんのタグに批判があっても全然平気、むしろあって然るべきだと思ってるよ。もちろんその内容が個人によって個別に評価されることになるのも、批判も称賛も同じ。
批判すること自体を批判する世界は最悪だよね。タグ付けないならいいけど。ってのもなんだかなーって思う。自分の目に入らないとこでやれ、ってことよね。不寛容というか少数派排除というか。批判が多数のどんど晴れタグでもネガツイはタグ付けるなと言われているのかしら?
たかがドラマ、たかがマンガ。ただの娯楽じゃないかと言いたくなるのもわかるけど。戦前戦中の好戦ムード下でどんな小説が書かれ絵が描かれて民衆を扇動したかは、歴史上に明らか。大本営に迫られなくても、新聞もマンガも売るために好戦気分を煽るものを書き、それを読んで民衆はさらに熱狂した
→それ考えたら、売れるもの、多数の支持を集めるものが必ずしも正しく素晴らしいわけじゃない、って明らかで。どんな作品も、どんな現象にも、吟味検証はされて然るべきなんだよね。個人の批判的な感想にまで排他的になるなんて、結局自分が生きてる世界を悪くするだけ
ドラマや映画なんて楽しめるものだけ見ればいい、ってのは自然な考えで私も基本的にそうだけど、「そうであるべき」と断定してその価値観を他人に適用するのはどうなのかって
(はつさんを批判するものではないと前置きした上で)視聴者層はいろんな年代がいるから、たとえば菊さん世代のお姑さんが今日のはつさんを見て都合のいい部分だけ憧れて「うちのお嫁さんにも」と過大な期待に胸をときめかせてしまったら、困惑するお嫁さんも居てはるやろなぁと。→#あさが来た
今日の放送をきっかけに「あれはドラマで明治の話よ」では済まないお宅があちこちにあるんじゃないかと気を揉んでしまう。「嫁の鑑」ってなんだろう?あんな菩薩様のように笑顔で苦難を受け容れる人なのだろうか?はつを真似して自分が壊れない人がいるのだろうか?→#あさが来た
介護も看取りも綺麗事ではない。完全無欠なお嫁様像を演じるはつは神々しく素晴らしいけど、同時に複雑な思いも胸に去来する。今後菊の世話をはつが一手に引き受けるのではなくて家族が分担する姿が描かれるのなら、少しは懸念も晴れるのかもしれないけど。。。#あさが来た
RT 嫁の鑑って何だろう? それと同じように、「女性の生き方って?」「働く女の在り方は?」「良き夫、良き夫婦とは?」など、様々なことを考えさせられる(作中の在り方に疑問を持たされる)ドラマ。私にとっては問題提起ドラマだなー #あさが来た
あさきたの「いい話ターン」はヒューマンドラマというより小学校の道徳の副読本みたいなもんなので、あながち某ユウコサンの「道徳の時間に流しては」というのは間違っていないのよねw
あともはやなんでもはつ様の思い通りになってしまうはつ帝国はなんなのだ。「あさもはつも否定しない」物語が「はつだけは否定してはならない」みたいになっていて怖い。なんかやっぱり「輝く女性」の専業主婦側に求める理想の妻像みたいで……
宜ちゃんの描き方によりなので保留するけど、働く女性側のあさも、専業主婦側のはつも、一部の人に都合のいい姿過ぎてな
つの出してニッと笑い「ほなな」から歩き去ってくあさちゃん、なんて素敵なんでしょう、痺れる。波瑠さんとっても上手にやったね #あさが来た
要所要所のあさちゃんのかっこよさに裏づけがあればなぁ・・・。かわいいとき、弱いときがあったってもちろんいいんだよ。女実業家でもあり母(妻)でもある、その姿の積み重ねが弱くてブツ切りなんだよね #あさが来た
フナさんはその場で適当に話し合わせただけみたいな演技を高橋由美子がしてたように見受けましたが? 「正論やけど、うちの娘には適用でけしまへん…」って雰囲気だったよね。 #あさが来た
菊さんにとっての家の概念はまさしく山王寺屋という看板なんだけれど、おはつちゃんにとっては家族っていうふんわりしたものになっちゃっているのよね。昔の人の背負っていた家っていうものは菊さんのほうが正しくて、守るために家族なんかどう犠牲になってもいいくらいの勢い。 #あさが来た
@CordeliaFAnne その家の没落を旦那も息子も「まー、こうなったらしゃーないやん」くらいの温さでスルーだもんな。その辺、ちょっと現代的に過ぎる感じはする。 #あさが来た
2016-03-02 09:14:54 via Twitter for Android to @CordeliaFAnne
RT 菊さんに最期は安らかな気持ちで旅立ってほしいとはもちろん思うんだけど、昨日のシーンに続いて「ここが山王寺屋」、自らそう納得して、この一連が菊さんの救いになったという描写はやっぱり、菊さんの人生を尊重してないように思うのです。#あさが来た らしいんだけど。
「自分が好きなものを批判されるのはイヤ!耐えられない!」て人もやっぱり一定数はいるんだけど、「そう感じる人もいるだろう」「意見によっては一理ある場合もある」ぐらいに捉える人もそれなりにいて、後者が増えることで世の中だーいぶ変わるんじゃないかなって思ってますよ
異見を出しても大丈夫って土壌を作るのはすごく大事だと思うんよね。「人と違っても大丈夫」につながるし。異見=浮く・その発言主まるごと出る杭として打たれる、みたいな感覚があるから、PTA、町内会、会社にしろ話し合いが機能しないわけで
ツイッターみたいなオープンSNSはリアルよりは自論を出しやすいんだから、まずはこういう場所から寛容になれたらなーと思うけど。って理想論すぎます?
RTした「友達に好きな作品を批判されたらもうその作品が楽しめなくなってしまった」という漫画は既に2万RTを越えていて、批判や反論ももう炎上に近いくらいされているので付け加えるものはないんだけど、他人と自分という「脳の仕切り」が曖昧な子供の思春期心理を見事に書いた漫画ではあると思う
まあボコボコに批判されてはいるんだけど、言うほど僕等大人も「自分」を持って作品を見たり評価しているのかと言ったらそうじゃない気がする。思っている以上にホモ・ゲシュタルト(集団人)として生きていたりするんじゃないかな。感情が本当に自分の感情なのか、社会の共有感情の転写にすぎないのか
じゃあそれをどうするのかと言ったら「他人の言葉に対する自分の言葉を持つ」ということしかないわけで、それが成長であり学問の始まりだったりするわけだと思う。
RT 「他人の言葉に対する自分の言葉を持つ」ほんと、そのとおりだと思うわ。
そして、自分の言葉って、外に出していくことによって鍛えられるんよね。誤解の少ないように、誰かの心に届くように、要らぬ誤解を生まないように。そして、自分の言葉を出していくことで、人の言葉も尊重できるようになるし、避けられない断絶を受容できるようにもなると思う
人と違う意見を言うのも、言われるのも、ある程度は慣れの問題もあると思う。大河や朝ドラタグだって、何年かいればさまざまな異見に触れるし、自分のツイートを批判されることもあるけど、それで死にゃあせんし、伝わることもあるし。
嗜好が細分化された現代では多くの選択肢から好きなものを選ぶ自由があり好きなものだけを集めて暮らすのもそれなりに可能、ある意味幸せだけど、好き以外のものに対する耐性は低下する。多様性が増えたようで実は閉鎖的・排他的に。グローバル化が進んだ世界でナショナリズムが進むのも同じだろうけど
SNSで本気で傷つく必要もないけど、人と違うこと書いて批判されたってなんちゃあないし、と思える人はどんどん書いたらいいっていつも思ってる。そういう人がいればいるほど続きやすくなるから。いろんな人がいていろんな意見があることにみんなが慣れたらいい。求む、ファースト・ペンギンですよw
タグにネガツイするなんて…てか、そもそも作品へのネガな感想をわざわざツイートするなんて、って意見は多いけど、ポジもネガも感想として等価値だと思うよ。うれしい・楽しいと同じくらい、違和感、がっかりの感情も大事だよ。浅子さんもそうだったろうけど違和感から始まるものもある #あさが来た
おかしいな。どうしてこうなんだろ? もっとこうなったらいいのに。そんな疑問や思索が新しいことや良き変化につながっていくもので、あささんの人生はまさにそれでしょ。幸せの形はそれぞれ、生き方も思うこともそれぞれ。#あさが来た のそーゆーとこが好きな皆さんは寛容を良しとしているのでは?
あさが来たは、ポエムなんだなあと今日思いました。なので連続性がないのも必然なのです。 URL
#あさが来た ポエム説。すごく興味深い。そしてある意味、納得。続くツイートで物語とは違ったポエムの効用を書いておられます。 URL
物語には、じぶんの連続性を意味付けてコントロールし癒す作用もあるけど、その逆で、物語のしばりで過去のトラウマから逃れにくくなる時もあるんだよね。そこで、断絶がうまく作用する感じあるな
感動回の今日、一点残念なのはあさの蛹のくだり。なぜこの脚本は、他人の言葉を自分の言葉のように主人公に喋らせる形にするんだろう。最後に「うちも旦那様に教えられました。」と付言するといいのになぁ。 #あさが来た
年明けから特に、紙芝居的というか、マンガの見開きババーン!!的な見せ方が多くなり、その場その場のインパクトと情緒で流している印象が強くなりました。モデルの広岡女史の情報に頼りすぎている部分もあるかと。 URL
@tealeaf_1309 批判とdisの線引きは、受け手の主観になるので難しいところではありますが、いろんな意見に触れることで、そういう選別眼や悪質なものに対するスルー力もできてくると思うんですよね。なのでやっぱりタグTLって多種多様・雑多な意見があるのが好きです。
だから〜、孫の生き方は別として、おばあちゃんの夢ってのはそっとしとかないと…年とって楽しみは孫への期待しかなかなってくるんだから…それを適当に受け流してあげるのも子や孫の努めではないかと… #あさが来た
勉強したがってた少女あさちゃんを叱り飛ばしてたことを後悔してるお父さんから、女子大の用地@東京 がプレゼントされる感じかな。さほど熱情は感じられなくも一応「大阪の繁栄のため、東京に負けるな」と言ってきたから、東京シフトには遺言くらいの動機がいるだろうし。 #あさが来た
一応あと1か月あるので(女子大や保険はサラリだろうから時間は充分)、かっちゃんの「一生、和歌山でみかんと子ども育てて生きる」宣言が徴兵フラグにも思えるけど、さんざんファンタジーしてきた #あさが来た で今さら時代の暗部みたいなのに触れるのはやめてほしいので気のせいでありますよう
まあ山王寺屋没落もサトシ / 萬屋事件も時代の暗部といえばそうだけど、日ごろさんざん昭和や平成脳で進んでおいて、都合いいときだけ”時代”を使う作劇だなーと思う #あさが来た。ハチャメチャやってる #ちかえもん のほうには歴史(時代)への敬意をちゃんと感じるので、不思議ね。
今更だけど改めて、くしゃみしてる間に全部整っちゃうあささんのゴージャスレッドカーペット人生すげえ?
死ぬ前にはじめてあさの勉学の芽を摘んだことを後悔し新次郎ageし今のあさを承認する、という流れのために「気鋭の大実業家であさの実業活動の後ろ盾と人脈」の側面をオミットされ「頭は固いが愛情深い昭和の頑固親父」キャラに徹した忠興とーちゃんであった。お疲れ様でした #あさが来た
なぜこの時代にわざわざ女子大なのかという理由付けも、そこで具体的に何をするのかもぜんぶうやむやなまま、ただただ「ポン女設立」ありきで進んでいくのねえ。大仰な音楽で雰囲気だけ盛り上げてさも必然のように見せるやり方が、10年前までくらいの朝ドラみたいで懐かしいわ #あさが来た
確かにゼロ年代の朝ドラ終盤ってこんな感じだった〜w
積み重ねの描写はとても薄い(無いぐらい)のに、ここぞって場面にセリフで言って、役者の芝居とBGMで盛り上げて、積み重ねが「あった」かのような気分にさせるのがとても巧いドラマなんだろうなーと思います。#あさが来た
朝ドラは長丁場で、毎朝かぶりついて見るんじゃなく、ながら見したり、見たり見なかったりで見続ける人もいるから、ここぞって場面で盛って盛って盛り上げる(これまでいろんなことがあったのを見てきたような気にさせる)のは有効だし、そういうテクも確立してるんだろうと思います #あさが来た
類型的な作劇で、且つ描写に「空白」を作るのは、十人十色な長い人生を送ってきた視聴者が各々自由に脳内補完し感情移入するための朝ドラメソッドなのかも。そこで重んじられるのは、夫婦愛、親子愛、年長者や周囲への感謝、自分の境遇の受容。#あさが来た は鉄板な朝ドラだなあやっぱり
時代物や、仕事の業績ある史実人物路線でもあり、近年の朝ドラの集大成 or 発展形のような顔をしながら、やっぱり、#あさが来た って壮大な「従前の朝ドラへの回帰」なんだなあ。そしてそれを望む人もたくさんいるのが判明した。萌えや麗しい夫婦愛をプラスしたのが高齢層以外にも訴求したのかな
「これを描くんだ!」というユニークなテーマや世界観をもち、しっかり構成してディテールまで描き込み重ねてゆく、作家性・物語性の強いドラマ。それで「朝ドラなのに面白い・すごい」て評価されてるのがゲゲゲ以降の大きな潮流だけど、#あさが来た はその上澄みを掬いつつ本質は従前のザ・朝ドラ→
→柔らかい世界観でたくさんの人を癒したり励ましたりしたのを高く評価されると同時に、進歩してきたものが退行してきた感は批判を免れない部分だろうなと。それはドラマ構築の手法の違いという面だけでなく、考証の適当さやメッセージの掘り下げ不足。迎合。総じて浅はかな印象で。#あさが来た
・・・なんてのは私のシロート感想だけど、ドラマ終了後や、何作か後で今後の潮流も見つつ、有識者の方々がいろいろなことをしっかり評論してくれると期待します。もちろん誰の評論や批判とも関係なく、自分なりの、自分だけの #あさが来た があれば良いのだろうけど、私は評論を読むのも楽しみ。
#あさが来た の評論といえば、なりまさんが10月終わり時点で既に興味深い論をツイートしてた。つづきます URL
10月末時点で #あさが来た と #下町ロケット に共通して書かれた論なんだけど、3月に入った今、「全体でみると平坦でぬっぺりとした物語がここにある!」と思う人と思わない人がいるでしょうが皆様におかれましてはいかがでしょうかw URL
その後11月半ばに成馬さんが書いた記事。『昨今、ドラマ界では露悪的な表現による炎上商法的な演出が抑制されるようになった。その健全さに好感を持つ一方で、「人間の心は、そんなに簡単じゃない」とも見ていて感じる』#あさが来た URL
宇野さんの朝ドラ評、ちょっと笑っちゃったんだけど、実際どーしてそうなる? 彼はどこを向いてるのかな
旧来の価値観と力を持つ忠興や菊の気分をよくし、見ている人もハッピーにするために、彼らの贖罪に、はつもあさも「いいや、私は幸せです?あなたさまとおとこはんのおかげです?」とを言う。女が女ゆえの苦労を屈託なく笑顔で受け入れただ努力し、誰も恨まなければ、世界はこんなにハッピーになる。
わたしには、これは多数の幸せのために、ちょっとしわ寄せのいく人は文句を言うな、黙ってがんばれば力のあるものに目をかけられて報われますよ、という抑圧に見える。独立心と自由な心は、従順と依存とは並存しない。
批評家は筋書きに合わせて「後付けの理屈」を話しているだけだな。放送中の朝ドラが好評でその理由を肯定的に分析するという枠組みと結論が先に決まっていて、性差とか関係なく、記者が朝ドラをちゃんと見ているかどうかも分からない。よくある普通の記事。
なんか最近、批判することすら飽きてしまったくらい現行朝ドラ単調になってきたのだけど、昨日の父親の「もっと勉強させればよかった」という台詞になぜこの人物をヒロインに選んだのかますます制作側の気持ちがわからなくなってしまった春でした。
この人そもそも実家も婚家も複数事業抱えたスーパーエスタブリッシュメントの出身ですよ、学校なんて出なくたって能力が充分に活かされる、めちゃめちゃ恵まれた環境にあるわけです。でもね世の中の女性には掃いて捨てるほどそれを体現する人はいたはず、なのにこのドラマはそれ全然描いてないの。
2016-03-05 11:43:20 via Twitter for iPhone to @papurika_dreams
なぜ娘に教育を受けさせなかったことを悔いる父親の言葉を吐かせるのに今のままでも充分幸せなごくごく稀な家庭をモデルとして選ぶの?本気で女に教育が必要って訴える気ないでしょ、このドラマ!と言いたくなっちゃうんですよね。あー久しぶりにメラメラっときた。
2016-03-05 11:47:26 via Twitter for iPhone to @papurika_dreams
ほんというとね、宜ちゃんにはかわいそうだけど彼女は無理やり結婚させるべきだったんですよ、それで望んでない人生を歩まされてる人間の悲惨さを体現させるべきだったんですよ、女学生時代の溌剌とした彼女の明るさを思ったらそりゃ残酷ですよ、でもその残酷さがあるから後悔の言葉が活きるんですよ。
2016-03-05 11:51:17 via Twitter for iPhone to @papurika_dreams
で一転して人生の悲痛を体現したような彼女を見ても「みんなそうやって生きてるんだ、人生なんてそんなもんだ」と嘯く人間を登場させるんですよ、ほらそれ今も現実の世界で繰り広げられてる地獄でしょ?ドラマってそこまで描くべきなんですよ。なんでいつもその手前で足踏みしてんだって不思議に思う。
2016-03-05 11:56:25 via Twitter for iPhone to @papurika_dreams
あんなに幸せだった、将来に希望を持って努力しようとしていた宣ちゃんの人生を壊すんだという気持ちに皆なりますよ、なるから性別役割固定や家父長制維持に疑問を持てるんじゃないですか。それが大エスタブリッシュメントの庇護の下に入りめでたしめでたしじゃ現実の問題にまで想像が及ぶわけがない。
2016-03-05 12:02:38 via Twitter for iPhone to @papurika_dreams
連RT まさに同じことを感じた。ゆるく楽しむ朝ドラがあるのは全然いいけど、女性の教育や夫婦の対等性など表層的な書き方をしているのが私は許せない。学びたい欲求を絶たれた人の悔しさ、悲しさを微塵も感じさせない表現、それを気持ちがいいと評価するのは非当事者の欺瞞ではないかと思う。
RT 非当事者の欺瞞というのもあるけど、高齢層以外の女性でも、#あさが来た に描かれる女性の在り方や夫婦関係に疑問を感じない、むしろ好ましいと思っている人は多い。それが問題の根の深さだし、そこに加担してるから、あさ来たの作劇はひどいよなあと思います
宜ちゃんの進路、もうひと悶着あったほうがドラマとして面白かったですよね。あさのあの説得、普通なら「そうですね?」と受け流される類のものだし。娘の嫁入りはお家のことだから母の一存では決められず父、下手をすると祖父、存在するならご本家にまで了解を得ねばならないことでは。
視聴ターゲットである「頑張る女性たち」を応援したいなら、彼女らが抱える問題をドラマの中で顕在化させ、直面する姿で視聴者に訴えるのが作り手の誠意であり気概の見せどころだと思うんだけど、そういうの全部避けて蓋をして、むしろ問題を根深くするのに加担してるよねっていう #あさが来た
朝ドラで難しい問題やらなくてもいいと思うんですよ、何を描きたいかはそれぞれの作り手が決めることだから。でもがんばる女性たちを応援し、それぞれの幸せの形を描くなんて、多様性を謳うようなテーマを掲げながら、内容これかー、とは思うんですよね。