『あさが来た』 第22週 「自慢の娘」  みんなと違う意見、作品への批判の意義、支持と評価の違い

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クランクアップしたとのことで、おめでたい。毎年、朝ドラと大河のクランクアップの記事や画像を見ると、本当に特別な仕事だなあと思う。伝統枠の主人公(や、その相手役)に選ばれ、長く、ハードで、濃密な月日を過ごす。その消耗と充実感は経験した人にしかわからないものがあるだろう。大河も朝ドラも、主人公(とその相手役)はふつう、人生で一度きりしかない。だからこそすばらしい作品を用意してほしいなって思う。私はあさ来たの内容には懐疑的だけど、とにもかくにも世間の支持を得て惜しまれながらクランクアップを迎える波瑠さんや玉木さんを見ると、心から「おつかれさまでした、良かったですね」としみじみ思えてくるもんである。

さて今週はTLで(あさ来たとはまったく別件だけど)「好きな作品を批判されること」の話題が出てた。ツイートしたように、私は、その人がちゃんと見て持った感想なら、称賛も批判も本質的には同じじゃないかと思ってる。作品にとってもっとも大事なのは「コミットメントされること」であり、「作品が誰かにとって/世の中にとって何らかの影響を与えること」だろうと思うから。プロの作り手は批判なんて当然あるものとして、そんな次元を超えたところで作ってると思う(と信じたい)。それは『龍馬伝』での仕事を記録した柘植伊佐夫の著書『龍馬デザイン』なんかを読んでもわかる。

とはいえ、自分が好きなものを批判されたらそりゃ感情的にいい気がしないのも自然だけど、だからといって「批判は他所でやれ(作品タグをつけるな)」っていうのはよろしくない方向だと思ってる。それが当然にまかり通るようにはなってほしくない。ただでさえ、昔からムラ社会の文化がある日本、しかもどんどん排他的になってる世の中だ。

あと、作品にしても人物や政策にしても、それらが大多数に支持されることと、それらの評価とはまったく別問題なんだって、意外と見落としがちなのかな?と思った。ナチスも選挙で支持されたのだし、戦時下の日本で戦意掲揚の新聞記事や作品がもてはやされたことを考えると明らかなんだけど…。“大本営”の介入やプロパガンダがあったとしても、銃をつきつけられるまでもなく、生活苦や、世情の閉そく感から、そういうプロパガンダにあっさり乗って熱狂していってしまうのが、しがない生活民である私たちの常で、「ドラマ」のカテゴリのブログでこんなこと書くの大げさにもほどがあるようで、戦争以外でも、社会の変化って小さなことの積み重ねだとも思う。

だから、ドラマでもマンガでも何でも「楽しんだもん勝ち」ではあるけど、好きなものが楽しめる世の中を維持するため、作るためには、批評意識も大事なんだろうと思います。ネット時代で「1億総評論家」っていうのは批判的だったり揶揄するフレーズとして使われがちだけどね。

みんなと違う意見、少数派の意見でも、声を上げやすい社会。排除されない社会。それが「多様性ある社会」につながる。いろいろなことに通じる問題だと思います。

まぁその辺のこともいろいろツイートして以下に記録してるので、これ以上の重複は避けまっする。

 
































































































 

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