『遠い太鼓』 村上春樹

 

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

 

 

またまた何度目かの再読。以前ブログに感想あげてるのが2013年11月だから、やっぱり私は村上春樹のエッセイ群を2,3年に一度は読み返したくなる病(病ってこともないがw)のようですわ。

何度読み返しても面白いんだけど、心に残る箇所や感じ方は読むたびに違ったりして、本って「自分との対話」だよなーとあらためて思う。

『ノルウェイの森』でバカ売れした村上春樹が、あまりに騒がれるわ利害関係者に群がられるわで、とことん疲弊し嫌気がさして、日本を離れ海外で暮らした1986-89年の約3年間の旅行記・身辺雑記といった本。すわ、京極夏彦の小説か?!と思うぐらいの分厚さである(と、この一文、前回の感想記事からのコピペw)。

だけどさすが村上春樹。分厚いページをめくってもめくっても飽きなくて、永遠に読んでいたいと思わされる。

今回読んでいて「村上春樹はこれを37才から40才の時期に書いていたんだ」ってことに気づいた。先月37才を迎えた私は、このころの村上さんとほぼ同年代になってる。世界のムラカミハルキと自分を比べてもどうしようもないんだけど、なんかハッとさせられた。

このところ「知識や教養」って大事だな、もちろん「思索と行動」が前提にあっての「知識と教養」だけど・・・みたいなことをあらためてぼんやり考えてて、それに関連して「英語」っていうか「国際的であること」についても考えてた。

私は子どもの英語教育にはかなり消極的で、「英語を話せる以前に、“話すことに内容がある”人間になるのが先決だろ。英会話の技術だけで豊かなコミュニケーションがとれるわけじゃない」って思ってて、その思いは今もあるんだけど、一方で、21世紀の今もなお(自分を含めた)日本人がこうも島国根性なのは、やっぱり英語が話せないからって面も歴然とあるな、と最近、思い始めてる。やっと思い始めた、というべきか・・・(笑)。


ここらへん 
に書いたんだけど、安保法案のときに、(これも自分を含めた)日本人って本当に世界について知らないし興味関心も薄いんだなって再確認した。「世界の中でどうやって自分の国を守っていくか」ということを考えなくちゃいけないのに、どうしても「戦争をしたくない」とか「政権が悪い」とかの一点張りになりがち。その先を考えなくちゃいけないし、そのためには、まず「世界は、どういう経緯で、今、どうなってるのか。今後どうなりそうなのか」を知ってなくちゃならない。でも、そういう議論ってほとんどなかった。

極東で海に囲まれて(守られて)いるっていう地理的状況は、江戸時代だろうが21世紀だろうが変わらないわけだから、無理もない部分もあるんだろうけどね。

私も英語が喋れない。海外経験も乏しい。それは、「海外に興味がないから英語がんばったことなくて(読むのは割と得意だけど)、海外旅行にもあまり行かなかったんだ」と思ってきたけど、本当は、「英語が喋れないから外国に行くの怖いし、高いコスト(旅行代金)に見合うほど楽しめそうにない、で、あんまり行ったことないから興味も持てない」ってことでもあるんだなあ、と思う。そういう日本人がたっっっくさんいるんだと思う。卵が先かニワトリが先か、みたいな話ね。

『遠い太鼓』で、村上春樹はアテネに住み、同じくギリシャの地方であるスペッツェス島やミコノスに住み、イタリアに入ってシチリアに住みローマに住み、またギリシャでパトラスやらクレタ島やらを旅し、ついでに(?)ヘルシンキまでのぼったあとローマに戻り、ロンドンに滞在し、ランチアやロードスやカリアトス、トスカーナ地方、さらにはオーストリアまで旅してる。

そんなことができるのは、お金が続くから…ってのももちろんあるけど(笑)、やっぱり英語ができるからって面も大きいと思う。ギリシャやイタリアの地方で英語が通じないことがあっても、英語すらできない人間とは、条件は月とスッポンほど違う。

オリンピック観戦記でもある『シドニー!』でも感じたことだけど、同じ時間、同じ場所に行っても、感じること考えることは人それぞれだ。それは感性とか思考回路という問題だけではなくて、私がシドニーやギリシャに行っても、喋れる相手は少ないしテレビを見たってチンプンカンプンだから、感じ取れること・考えられることは限られるし、コミュニケーションに不安があるから行動範囲も狭くなると思う。

村上春樹は自分をすごく内向的で偏屈な人間だと評しているけれど、とりあえず英語ができるから、旅先でもいろんな人と話せるし、日本人が全然いないところでも大丈夫だし、テレビや新聞で言ってること・書いてあることもわかるから、その国のトレンドにも通じることができる。より多くの情報を得られて、そのうえで自分の思考を組み立てることができる。疑問や興味関心について調べるときも有利だ。英語圏での海外経験(異文化経験)が、非英語圏へのハードルを下げることもあると思う。英語なんてできなくても海外に行ったら経験値は激増するんだろうけど、そこはやっぱり日本人って(私を含めて)シャイだから、言葉が通じなくても文化を知らなくてもじゃんじゃん前のめりに行けるのってイモトさんとか千原せいじとか、限られた人材になると思うのよね。

村上春樹の旅行記を読んでいると、中身が(ページ数だけじゃなくてね)すごく厚い。観察力が鋭くて考察は深い。まあ彼の場合は世界に名だたる作家だからそんなふうなんだってのはもちろんあるけど、海外での経験が、人間をぶ厚く鋭く深くするところもあるだろうなと思う。やっぱ、何をテーマに考えるにしても、日本しか知らないのとは、違いってあるだろうなと。

春樹の旅行記は、まったく浮足立ってないところがいいんだよね。「海外ってやっぱりスゲー!」とか、逆に「日本人のすごさに気づいた」とか、そういう偏りが全然ないの。日本にいるのがイヤになって海外に来てるのに、へーきのへーざで「この島には特に何にもない」とか「ローマは人間が住む環境じゃない」とか「冬なのにもわっと暑くて調子が狂う」とか、かなりの主観を臆せず書いてる。

で、同じ筆で、「ご近所さんのキャラクター」やら「ローマの年末年始の風景」、さらには「ギリシャの経済状況や選挙事情」までを書く。目で見たもの・足で歩いたものから得た感覚だけでなく、出会った人との会話や、新聞・テレビの報道まで含めて、淡々とした主観と分析が並んで綴られていく。それらを読んで、「やっぱり、国内とはまったく違う視野を持った人の書くことだなあ」と強く感じた今回だった。

かといって、私自身が英語を喋れない今の状態で、自分の子どもに早くから英語を教えようという気になるか?というと難しいところだけど、最近つらつら考えてたことをとりとめもなく書いてみました。

 

 

 

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