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『富士ファミリー』

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木皿泉脚本、薬師丸ひろ子、小泉今日子、片桐はいり出演。見ない理由がないな!(笑) 

一富士、二鷹、三なすび。で、長女が富士子、次女が鷹子、3女がナスミかと思ったら、長女は鷹子で次女がナスミ。三女はというと「月美」なのだった。長女の鷹子は、早くに両親をなくした家で、大黒柱の責任感でもって家族を支えて生きてきた。まるで「富士山のように」いつでもそこに在る存在として。その生き方を、自分も周りも、疑ったこともなかった。だけど彼女は“富士子”じゃない。彼女は結局、紆余曲折の末、20回かそこら断り続けてきたプロポーズを受ける。6年前に病気で亡くなった妹、ナスミの幽霊が「今度は私がここに居てあげる」と言う声を聴いたのがきっかけになったところは、泣けた。

「いつでもずっとそこに在る」美しい富士山との対照が、「転がりながら生きていく」人間たち。人生の比喩としては「時に立ち止まりながら」「つまずきながら」がよく使われると思うが、このドラマが言う「転がりながら」には、前者より、さらに無様で行き先不明のニュアンスがある。それが人生なのだ、恥ずかしいことも怖いこともない、当たり前なんだよと、木皿泉が言っているよう。

鷹子も、「そこに在る」役割から自らを解放して、転がる人生を始める。そのパートナーが、自分のエゴから思い人をつまらん嘘で騙して心惑わせる情けないオッサンだというのもまた、「生きるとは転がること」の表現になっている。あのエピソード(別の相手との新居の家具を鷹子に選ばせる!!)、賭けにしてもどんだけデリカシーないんだよ、と胸糞悪くなるようなものだったけど、だからこそ、「それでも違う人生を始めたい、この人と一緒に生きたい」という鷹子の思いが切実に感じられるところではある。高橋克実の愛嬌にも救われる。

死者が見守る。転がり続けて痛かったり無様だったりする「生」に対して、死は不変。ヤンキーで怖い女だった(?)ナスミは、死して走り書きのメモで皆の心に火を灯したり、姉の背中を押したりする。遺される人間にとって近しい人の死は喪失。だけど、どこにいて何をしていても(エベレストの目前だって!)転がってくよくよしている人間を、死者はいつも見守ってくれる。富士山のように、変わらずそこにある。それは決して失われることがない。

「生」と「死」を、「転がるもの」と「いつもそこに在るもの」としての対比、つまり「人間」と「富士山」とをモチーフに描くかと思いきや、終盤の、笑子ばあちゃんとマツコロイドとのやりとりが、別の面から光を当てる。

ばあちゃん 「アンタ、介護してもらうだけのロボットなの?」
マツコロイド「そうよ」
ばあちゃん 「それじゃあ、人に迷惑かけるだけじゃないの」
マツコロイド 「私は人に迷惑をかける事だけのために作られたロボットです。意味は作った人に聞いてください」
ばあちゃん  「じゃあ、私が年取って人に迷惑かけるのも、そんなふうに誰かが作ったってことかい?」
マツコロイド「そうね。神様がそんなふうに作ったんじゃないかしら。きっと意味があるのよ」
ばあちゃん 「何もできなくなって人に迷惑かけるのに意味なんてあるのかい?!」
マツコロイド「意味があろうがなかろうが、すでに私たちはここにいる。そのことのほうが重要なんじゃないかしら」
ばあちゃん 「私・・・ここに居ていいのかね?」
マツコロイド「っていうか、もう居るし」

 

転がり続けて落ちていくようでも、人に迷惑をかけても、「ここに居る=生きている」のは絶対的なこと。意味なんて考える意味もない、揺るぎなく確かなこと。富士山がいつも在るのと同じくらいに。

生きることは転がること。でもどこをどう転がっていようが、大事なのは、「私たちが、今ここに居ること」。やはり、木皿泉は哲学的だなあ。

このやりとりが、マツコロイドを相手になされるのが、もう脱帽でしかない。おそらく夫の和泉務さんのアイデアじゃないかと想像するけど、もう決して若いわけじゃなくても、「今の世の中、そしてこれから」を見る目が確かなんだなあと。

人としては、富士山級の重量感があるマツコ・デラックス。彼女がその重量感でもって「介護されるためだけ」に存在しているとなると、その彼女が「ここに居ることが重要」と言うとなると、そりゃあ言葉に重みがある。でもそれを、「マツコそっくりのロボット」が言うことに意味があるんだよなあ。生身の人間が言ったら、いたわりとか同情心とかあるいは建前とか、言葉の背景にはなんらかの「感情」「思惑」があっておかしくない。ロボットが言うから、感情の排された、絶対的な真理に響く。

マツコロイドのようなロボットには、今、実際に、そういう役割でもって人間を助けることが期待されてるらしいよ。たぶん。ようわからんけど(by 新次郎@あさが来た)

役者では、とにかく片桐はいりの笑子ばあちゃんがすごかった! 一挙手一投足から目が離せなかった。あの芝居そのものをまた時々見たいから、録画が消せない(笑)。吉岡秀隆の憎めなさもよかった。「マヨマヨしてー♡ もっとマヨマヨしてー♡」のところ最高。
ストローであらわすくんずほぐれつといい、愛欲の表現がユニークなドラマでもあった。セックスは生きていることと直結しているから、あれらを描くのはよくわかるのだ。

最後のほうで、まだ見ぬ我が子にデレデレと話しかける日出男(吉岡)を、幽霊のナスミが微笑しながら見守っているシーンが泣けてしょうがなかった。転がり続けるのは、しんどいだけじゃなくて、時に無上の喜びだったりもする。何もかも死者にはもう味わえないこと。変わってゆくことはだれにも止められない。でも亡くなった人はいつでも見守っていてくれる。きっと、幸せになることを喜んでくれる。

 

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