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『花燃ゆ』 第15話「塾を守れ!」

大河ドラマ

伊勢谷友介、熱演。つくづく惜しいドラマだと思った。

藩に仇なす危険人物とみなされ、牢に入れられ(まあ、野山“やしき”なんですがね)、外界との手紙のやりとりを禁じられ、果ては筆と硯を取り上げられる。目も耳も奪われたも同然だが、それは「本質」が明らかになったに過ぎないのかもしれない。

「無駄死にせぬために時宜を待つ」という体の良い口上ばかりで何も動かぬ輩を松陰は激しく糾弾し、しかし何もかも取り上げられた牢の中で「自分も同じだ」と気づく。もとより自宅蟄居で何を為すこともかなわぬ身、塾生たちを焚きつけて自らの手足に代えようとしてきたのだ。木石ではない、情もあれば家族もある塾生たちを。彼らとの繋がりが絶たれた時にたった一人、弟が訪ねてきて自分が要人誅殺を実行すると言う。幼い顔に決意を宿す弟を、松陰は取り乱して引き留め、母の干し柿を食べさせる。なんというエゴ、なんという矛盾!!

ここで、耳の不自由な弟が「もっともつらいのは、自分の思いが届かないことだ」と松陰の思いを代弁するのもうまい脚本ではあった。弟がそんな思いを抱えながら生きてきたことに、これまで一度も思い至らなかった松陰に違いない。いっぽうの塾生たちは、松陰の手足となることに汲々として、「自らの頭で考えていない」「志にではなく松陰に従おうとしている」と小田村に喝破される。

あちらでもこちらでもアイデンティティが揺さぶられ、ついに松陰は「もう僕は死ぬことでしか生きられない」と悟る。ただ優しく、あたたかく、人の心を前向きに動かす兄だけを欲している文は、その思いの届かぬ断絶に崩れ落ちるしかなかった・・・。

って、すげー内面的ドラマだな!! 幕末って歴史の中でも突出してダイナミズムにあふれた時代のはずだがw 

こうして書いてみてもなかなか見ごたえのある筋なんだけど、幕末通り越して「自我に悩む近現代人」って感じになっている。妹の目から見た松陰だから、もとより政治・国際情勢なんのその、「人間・松陰」の描写に注力したいドラマなんだろうけど、背景なく本人に迫るから、なんかすごく「こじらせてる“だけの”人」みたいなんだよね・・・。反対に塾生たちは仲良しサークルでの馴れ合いにしか見えなくて・・・。小田村が全員の名前呼び始めたのにもついていき難かったわ、ずっと見てても誰が誰でどーゆー人なのかほとんど判別できないからね。

このドラマ見てると、松陰も久坂も高杉も、村塾も長州藩も、ことごとく矮小化されて見えるんだけど(まあそれは昨年も同じでしたがね。歴史の矮小化が大河の定番になりつつある悲しみ・・・トホホ)、そうやって背景なしに描くことによって、「松陰のエゴ」「松下村塾=指導者に扇動されたテロ組織」という面ばかりがやたらクローズアップされるのは、なんだか皮肉なことですね。「幕末男子の育て方」だなんて、公然と“ゆるふわスイーツ大河”を謳ってた、このドラマが。

松陰からの絶交状のあたりなんて、書きようによっちゃ萌え萌えドラマになるはずなのに、あっさり切り捨てだもんなー。高杉ってヒロインの夫をさしおいて三番手にキャスティングされてるのに、今んとこ扱いひどいよねw てか、久坂が塾生になるまでの経緯以外、村塾の師弟関係に萌えがほとんどなかったぞ! おいこら!!

とはいえ、伊勢谷友介の鬼気迫る表情には大河ドラマを見る醍醐味を味わわせてもらった。こちらも全体的評価はイマイチにとどまる(個人的感想です)『龍馬伝』にあって、高杉晋作という超美味しい役を与えられたのに続いて、今作でも「松陰=伊勢谷」という爪痕はじゅうぶん。突出した演技力をもっているわけではないけれども、存在感が屹立した俳優として、これからも歴史系のドラマには欠かせない人材だろう。演技力だって「キャシャーン」時代を思えば・・・(以下、以前も書いたので自重w 

てか、あのさー。

サブタイトルがふらふらしてる大河って、本編もダメだよね。名は体を表す、だな。その点、清盛はキリッとしてたわ。「殿上の闇討ち」だとか「殿下乗合事件」とか一般的にマイナーな事件でも堂々と冠してた一方、「光らない君」だとか「友の子、友の妻」だとかオリジナリティを出すのも恐れなかった。八重も、「妖霊星」だとか「蹴散らして前へ」だとか、「「二本松少年隊の悲劇」だとか・・・中盤までは志のあるタイトルだったのよね。後半は「過激な転校生」とか「わたしたちの子ども」「襄と行く会津」など、サブタイもぐだぐだになっていったのだ・・・。