読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『LIVE! LOVE! SING!〜生きて愛して歌うこと』

震災を経験した少年少女たちの4年後の「今」を描くドキュメンタリードラマ。語りすぎないところが実に雄弁だった。

主人公の朝海(石井杏奈)は担任の岡里と付き合っている。朝海が半年ラブレターを書き続けて落としたのだ。おしゃべりを続ける女子のグループに「早く教室に戻れよ」と言って通り過ぎざま、朝海がこっそり背中にかまえていた手に無造作に触れて、自嘲ぎみに頭をかきながら歩いていく岡里(渡辺大知)。甘酸っぱい青春映画のようなこのシークエンスだけで、一気に“心がもっていかれて”しまう。

けれどすぐに自体は不穏に。朝海の所属する合唱部の顧問でもある岡里は、部員を集めて発表会の最後の曲を提案する。「しあわせ運べるように」というその歌は、阪神淡路大震災のあとに地元神戸で作られたもので、「亡くなった方たちの分も毎日を大切に」「地震にも負けない強い心/強い絆で」と、ひどく直接的な詞を持っている。朝海は福島原発のそばの町で被災し、神戸に移ってきた。少年のころ神戸の震災を経験した岡里は、朝海にこの歌を歌ってほしい、自分の母にも聴きに来てほしいと言うが、朝海は強く反発する。

小学校の同級生、本気(前田航基)から朝海たち友だちグループにLINEで連絡がきて、小学校に埋めたタイムカプセルを掘り起こしに行くことになる。彼らはみなバラバラになっていて、神戸の駅ナカや、列車の中や、故郷の駅の改札を出たところでそれぞれ落ち合う。成り行きで岡里もついていく。若者にはお金がないから、在来線のような電車や乗り合いバスに乗って、カラオケで夜を過ごしながら行く。

久々の再会にはしゃぎながらの旅の様子は、さながらロードムービー。朝海とカガリはカラオケで、息の合った「チョコレートディスコ」を歌う。カラオケのビデオテープには「2009年」と出る。まだ彼女たちが無邪気でいられたころ。カガリは横浜に移住していた。被災したのち看護師になりたいという夢をもつ美少女にマスコミが群がって虚像を押しつけ、疲れさせる。「今は親に言えない仕事をしてる」とカガリは言う。原発の町出身のことは伏せている。「仙台で被災して家が津波に流された、と言えば、それ以上何も聞かれない」。同じ被災でも意味が違うのだ。

やがて今も福島に住んでいるらしい本気も合流。バスの中、カガリは黙って深々とマスクをつける。彼女にマスクを差し出され、朝海は断る。本気は受け取って、つける。このころには、はしゃいでいた彼らは一様に無口になっている。

本気を案内役に小学校へ向かうのだが、かつての学び舎にたどりつくのは容易なことではない。危険区域のためあちこちが閉鎖されているのだ。足が棒になるまで歩いたあげく、朝海とカガリは許可証を持ったトラックの運転手に“かわいい女子高生”をウリこんでこっそり乗せてもらう。荷台に隠れた朝海は検問所の男(皆川猿時)にうっかり見られてしまう。息をつめる朝海。けれど男は微笑んで彼女たちを見逃すのだった。このときの皆川の悲しげな微笑みは、すごい。

トラックの男(中村獅童)は、家畜の肉牛たちに餌をやるために危険区域内に通っているのだった。震災がなければとっくに食べられていたはずの牛だが、家族みたいで見捨てられない、と言う。「いつまで(エサ)やればいいんだろうな。いつまでできるだろうな」と男は笑う。

男と別れた朝海たちは、自分たちの町にたどりつく。無人の商店街。荒れた店内。止まっている時計。2011年の4月に行われるはずだった地元の祭りのポスターが貼られたままになっているガラス。4年間着替えていないブティックのマネキン。やがてそれぞれが住んでいた家も。カガリの家は、しっかり形は残っているのに今は誰も住んでいないマンション。勝の家は一軒家だったようだが、すべて流されてしまったのか基礎だけが残っている。勝はひとりで号泣する。はっきりとは語られないが、どうやら家族もみな失ったようだ。

砂浜でひとりしゃがみこんで、一心に何かを探している女(ともさかりえ)。一行は彼女の店(バー)に泊めてもらう。店には恋人との写真がたくさん貼ってある。漁師だったらしい、強そうな男(津田寛治)。朝海がふと店の外に出ると、眩しいネオンサインが光っている。人が集まっている。祭りのようだ。笑顔でやぐら太鼓を仲良く叩くのは、店の女とその恋人。検問所の男(皆川)も浮かれて歌っている。

この祭りは結局朝海の見た夢なのだが、ものすごくインパクトが強いもので、このドラマの核になっている。ここで二階堂和美によって歌われる「GIGつもり」は「あまちゃん」の音楽を担当した大友良英が手がけたもの。

「311はなかったつもり」
「日本は絆があるつもり」
「地震も津波もなかったつもり」
「放射能はないつもり」
「みんなみんな生きてるつもり」

皮肉で先鋭的な歌詞に、ジャンルや土地柄のわからないメロディーとアレンジがつけられていて、派手なネオンサインのもと、ちんどん屋のような人々の先導でみんなが歌う。歌に合わせて朝海も叫ぶ。「つ・も・り!!」 楽しげで、大らかで、爆発的。であればあるほど、もの悲しい。

夢から覚めた朝海。岡里と一緒に、点滅信号と街灯は点っている夜の街を歩く。町を一緒に見てきた岡里は、震災で自分の1つ上の兄が死んだことを告白する。それから、母は自分の顔をまともに見られないのだと。「わからんくなるで。自分が生き残ったのがよかったのかどうか・・・」。そして、「朝海にあんな歌(しあわせ運べるように)を歌わせるのは暴力やな」と言う。朝海「地震なんだよ。私たちの足元では、まだ地震が続いてるんだよ」

翌朝、例の砂浜で女(ともさかりえ)と別れる一行。「きっと見つかるよ」と朝海は励まそうとする。「こんなに探してるんだから・・」すると最後まで言わせず、女は朝海を砂浜に突き飛ばし、覆いかぶさって殴りかからんばかりの勢いで叫ぶ。

「見つかってたまるか! 見つかった瞬間に、終わる。この、クッソみたいな景色が現実になる」

それでも探さずにはいられない。「自分が何やってるのかわからなくなる・・・」嗚咽する女の前に、誰も、なんの言葉も持ち得ない。凄まじい断絶。

たどりついた小学校の庭の隅から、勝がタイムカプセルを見つけてくる。本気は他愛もなくミニカーをいくつも入れていた。カガリは、未来の自分への手紙。勝は家族写真。すべて流された彼にとってそれだけが遺った家族のよすがだった。

そして朝海は・・・ガチャポンで出てくるようなカプセルをしっかりとテープで閉じて入れていた。けれど中はからっぽ。自分自身で首をひねり、そして思い出す。小学校の教室の、のどかで、無邪気で、楽しい空気を、その中に閉じ込めておいたのだった。今は除染土の真っ黒い袋が積まれた殺風景な校庭に、かつて、子どもたちの笑い声が響いていたころの景色が重なる。こんなふうに取り戻せなくなるなんて誰が想像しただろう。

朝海は校舎の上から無人の町に向かって叫ぶ。「この町は必ず復活する、つ・も・り!」 

決意をもって叫んでも、叫んだそばから欺瞞になってしまうような虚しい響き。それでも叫ばずにはいられない、今を生きている者のナマの気持ち。しかしこの景色を前に誰がそれを信じられるのだろう? 悲しみや怒りや微かな希望や、圧倒的な不条理や・・・言葉にし尽くせない、さまざまに重なり合う思いが巡る。

そして彼らはまた別れ別れになり、朝海は神戸の合唱部で、岡里の指揮で、「しあわせ運べるように」を合唱するのだった。口を大きく開けて、笑顔で。会場の外には、そっと覗きこんで、震えながら合掌する岡里の母の姿があった。

朝海がなぜ気持ちを切り替えて歌えたのか。「暴力だ」と言った岡里も、なぜそれを覆したのか。作中でその説明をいっさいしないのは、もしかしたら「尺の都合」によるところもあるのかもしれないけれど(75分の今作だが、神戸と福島では100分の完全版も別に放送されたらしい)、効果的な編集になっていたと思う。

見る側は、いくつもの想像をしてみる。仲間や恋人と故郷への旅を共有したことによって、頑なな心がほどけたのか。旅を経て、「絆はあるつもり」と心の中で皮肉を呟きながら乗り切る“すべ”を身につけたのか。耐え難いほど直截な歌にも心を乗せられると思うようになったのか。清濁併せのんだずっと先に復興があると悟ったのか・・・。なんにしても、経験と断絶とを心の中に刻んで大人になっていくしかない。生きることも愛することも歌うことも、しんどい。けれどどこか眩しく、うつくしく、命の尊さを思う。