『花燃ゆ』 第13話「コレラと爆弾」
自分のTLって自分好みにカスタマイズされているものなので、TLにおける作品の評判って大概まとまるんだけど、「花燃ゆ」に関しては、大河の視聴習慣のある方の中でも、「今回はマシ」「今回はクズ」みたいにすごくバラける傾向にあるなーと思う。
それもむべなるかなで、結局、ドラマの軸が定まっていないんだよね。たとえば朝ドラ「マッサン」にもいろんな反応はあったけれど、結局「でもこのドラマが描きたいのは夫婦愛だから」という軸をTLの大方が共有していたので、自然とそのテーマに拠って見ているところがあったし、「これは自分の好みだから(気に入らなくてもしょうがない)」みたいな感想も多かった。
「花燃ゆ」の場合は、軸が全然わかんないので、3か月経っても各々が「このドラマで見たいもの」という尺度で感想を持つしかない。もちろん、どんな作品に対しても視聴者は自分中心、主体的です。でも、作り手の意思が見えない(統一されていない)ものを受け取らなければならない困難ってあるなあ、と、このドラマ(とTL)見てるとつくづく思います。まあ、大げさに書きましたが。
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で、今回、私は面白かったです! このドラマで初めて「幕末の緊迫感、混迷のもよう」を感じた。それと、(スケールはまだまだ極小ですが)「長州の狂気」も。
人の死を扱えばそれなりのドラマになるのは当然だけど、緊迫感&混迷に寄与していたと思います。さっきまで元気に働いていた人が突然倒れて、熱を出し吐き続け衰弱して死ぬ。言葉をかけることも、近寄って見送ることさえかなわずに、幼い子が遺される。看病していた者が倒れる・・・。コロリの描き方もオーソドックスではあるけれど、演出もあってか割にドキドキしながら見ました。
異国からもたらされたおそろしい死の連鎖は、攘夷だの条約だのがわからない庶民や(わかった気になって騒いでいる)武士たちにとっても、もっとも身近な脅威だっただろうなとあらためて思いました。幕末の歴史をすすめる推進力のひとつになっただろうなと。
そして私はこの人のこと知らんかったんですけども、小野為八を父子込みで見せるのもうまいなと思いました。「仁術」である医を業とする父はコロリを前になすすべなく、対する息子は珍奇な武器で勝負しようとする。武器開発にいそしむ松下村塾って、見ようによっちゃ狂気の沙汰ですよね。でも、長州ってテロリストの温床っていうのが一般認識でもありますよね(笑)。ここで大切なのは、後世の人間が後世の目線でその行動を簡単に可否する前に、当時の尺度を知ることですよね。
今回の、小野為八の「地雷火」開発及びそれを推し進める松陰以下 松下村塾の描き方には、当時の彼らの「やむにやまれぬ思い(by 八重の桜)が“ほとんど初めて”感じられたように思う。
志士としての志もさることながら、「筋道立てていって答えが出るもの・珍奇なものが好き」という性質で地雷火を作っていて、それを世情に鑑みて松下村塾に持ち込んだ為八。それが父の生き様と死によって違う意味合いも持ってくる。また、松陰に「父性」を求める・・・という描き方、良かった。
松陰の「コロリになすすべのない我が国が怖い」というセリフも良かったし、文に問われての「屈しない心」と答えるのも良かった。屈しない心を持つためには「俺たちは負けない。強いんだ」というよりどころが要る。そのひとつが西洋(先進国)に負けない武器であり軍備である・・・って理屈は、ものすごく普遍的だ。それがOKってわけじゃないよ、武器なんて持たずにすむならそのほうが絶対いいんだよ、でも自分が危険な状態にありながら「太平の世をつくるため」とかなんとかな理想のお題目を掲げて戦われるよりは、はるかに納得できるものがありましたよ。
為八に背負われて夜の道をゆき、やがて夜明けになって地に足をつけ、叫びながら走りだす松陰。その言葉のない描写も、切実で、かつ「こいつ、やべー」ってのも感じさせるもので、こういう「負のエネルギー」が歴史を動かすのだ、という感じがしました。
地雷火の煙は、塾生には希望の証かもしれないけど、文にはコロリ患者を荼毘にふす煙よりもずっと大きいからこそずっと不吉に見えるんですよね。それを、「見届けたい」と願ったけれど為八(塾生)によって拒否されて遠くから見るしかなかった、本当に「なすすべもなく、ただ遠くから見るしかなかった」という文の描写も、今回、素直に受け止められました。このときの井上真央の表情が映画的で・・・今回の演出って、なんか今までと全然違いましたよね?
いっぽう、京都で何やらがんばろうとしている我らが久坂さんの「おめーに何ができるんだ?」感は今回も健在で、そこにわざわざ駆けつけた高杉が門前でのんきにコイバナするのはホント勘弁って感じなんですけど、おヒガシさまが出ただけでちょっとうれしいです(これはTLの大河クラスタがほぼ一致する感想w)。で、ラスト、時代不明のラブレターを書いてたどたどしい口調で読み上げたのは・・・東出くんだから許しますっっっ!
・・・てのも、確かにあるんだけど、(久坂の何がどのように松陰や桂にかわれているのかは今もってよくわからないものの)自分たちの手で幕末の動乱の狼煙を上げた塾生の一味である久坂にも、こうしてかわいく切ない里心、男心があるんだよなあという感じが、なんだかしました。これは脚本っていうより演出の妙かな。
なんかね、地雷火の実験だなんてチンケな素材がね、このときの松下村塾のちっぽけさを表していて、ぐっときたんですよね。こういうところから始まるんだ、っていう。
で、まだまだちっぽけな村塾の危うさを諌める小田村さんの苦虫をかみつぶした良識派・保守派な姿が、「あー、この人これだから明治まで生き残ったのだよな」と見えて、どちらに対してもある種の残酷さがあって、歴史ドラマっぽかったです。宮村さんの脚本の良さって、こういうとこか! いや、今回はやっぱり演出かな?