『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』 池上彰

池上彰の宗教がわかれば世界が見える (文春新書)

池上彰の宗教がわかれば世界が見える (文春新書)

さすがのわかりやすさに脱帽。以前、こんな記事( http://mamajanaiwatashi.hatenablog.com/entry/2014/05/07/145324 )を書いて「池上彰番組的わかりやすさ」を軽くdisってみましたが、すんませんでした、宗旨替えしますw これからもどんどん池上センセイにわかりやすく教えてもらいたいと思います。なんたって、池上センセイによる第1章「宗教で読み解く“日本と世界のこれから”」のわかりやすさは無類。そして非常に面白い。

宗教から気候風土が見える、として、イスラム教について、砂漠地帯という厳しい環境で「とりあえず生かされている」という実感から、神によってすべてが創られ、神の怒りに触れるとあっけなく死んでしまう、という教えが根づいた、とある。イスラム教の天国についてのイメージ「清らかな泉があり、川が流れていて、涼しい木陰で木の実やブドウを食べ放題・・・」は、砂漠ならではのもので、日本のように現実に水が豊かで木陰がそこらじゅうにあり、作物がよくとれるところでは、当たり前すぎて絶対に出てこない、と。

また、ヒンドゥー教や仏教にある「輪廻転生」の発想は、あっという間に生き物が死ぬけれども次々に新しい生命が生まれてくる熱帯のインド、豊饒な、ものすごい生命力にあふれた地帯からこそ生まれた、とする。では日本の神道にある「八百万の神々」は日本のどのような風土から生まれてきたのか?

なんというわかりやすく興味深い語り口。ページをめくる手が止まりません。

キリスト教カトリックプロテスタント東方正教会の誕生の流れと違いについて。ユダヤとキリストとイスラムの神が同一であること。使徒パウロによって構築された旧約聖書新約聖書とを重ね合わせて読み解くキリスト教の理論。「父なる神」と「子なるキリスト」そして「聖霊」の三位一体。

世界の始まりとか終わりとかを語ることのない仏教の世界。生き物は前世で行ったこと=カルマに従って輪廻転生を繰り返すものであり、それは苦しみであるので、「もう二度と生まれ変わらない」ことを理想とする。それが解脱であり、涅槃に入るということである。その輪廻の外にある「仏の国」のひとつが極楽浄土。解脱しようと思えばできる身でありながら、あえて人々を救済するためにこの世に戻ってきた人を「菩薩」ということ。

預言者ムハンマドが神の声を聞いたのは7世紀であり、イスラム教は比較的新しい宗教であること。旧約・新約聖書と違って物語形式でなく、「神の言葉」をそのまま記録した断片的な文章が並ぶのが「コーラン」であること。ムハンマドの言動を記録し、「コーラン」を知るための参考書とでもいえる「ハディース」の存在。女性をベールで覆い、一夫多妻を認め、ラマダン(断食)月をもうけ、豚肉を食べない慣習の根拠・・・。

などなど、以降、各宗教についての章も、「わかっているようでイマイチわかってなかったりする基礎知識」の痒いところを的確についてくれる。これらについては、池上センセイともなれば自身が筆をとってサラサラと書ける類の一般教養であろうが、わざわざ、章ごとに専門家を招いてインタビューした模様が書き起こされているのだ。基礎知識、一般教養とはいえ、やはり、その宗教に帰依している(帰依って仏教以外に使わないんだっけ?)方の言葉には、随所に重みと説得力がある。

特に、第4章「仏は生・病・老・死を救ってくれますか?」でのインタビュー相手、臨済宗神宮寺の住職・高橋卓志には感銘を受けた。江戸時代の檀家制度から次第にビジネスモデルが定まり「家業」化した寺を厳しく批判し、「お坊さん自らが苦の中に入り込んでいく」ことが必要だと説く。おそらく何十年も前だろうが、ニューギニアのビアク島で第2次大戦の兵士の遺骨収集に立ち会った体験が彼のポリシーにつながった。

いのちが生・老・病というプロセスで続いていく中で、死を捉える。つまり、生・老・病・死その時々に応じて、丁寧にかかわっていかないといけないと思います。まず、お坊さんにそういう意識を持ってもらいたいですね。

神宮寺の場合は、亡くなる前からのお付き合いが多いから、その方が呼吸を止める前にほんとに苦しい思いをしていたこともわかりますし、その方がどういう思いで生きてきたのか、どのようにして皆さんにお別れのメッセージを出したかったのかを知ることもできます。そのうえでお葬式を組み立てていくことが必要じゃないかと思います。

もともと寺は、個々の人間の要望や苦しみに対応する仕事と同時に、地域の中にあって、その地域全体を作り上げていく核にもなっていたと思うんですよ。
(中略)
お坊さんたちが世襲を繰り返していく限り、魅力的なものは後世には残せないと私は感じています。しかし、寺が持つ潜在能力を発見し、認識し、極限まで引きだしていけば、寺はめちゃくちゃ面白い。やれる仕事はいっぱいありますし、それによって社会に対してインパクトを与えることもできる。宗教法人の本来事業としてやれるものも多くあります。

この人、寺を拠点に、チェルノブイリの医療援助や、HIV感染者の支援、地元松本での障害者支援、ホスピス運営など、幅広い活動をしているらしい。

私は御多分に漏れず深い考えもなく「無宗教です」というスタンスの日本人だし、20年前のオウム事件やら、若いころにおそらく創価あたりの激しい勧誘攻撃にあったらしい親から拒否意識を植え付けられたりもしていたので、なんとなく「宗教=洗脳、排他」「宗教に入る=地に足をつけない非現実的な生き方」のような意識を持っている。なので、このように、現代社会・地域社会に対して尽力する宗教家の姿には、まず意外の念を覚える。

でも、そのように「現世の苦しみに寄り添う」のが本来の宗教であって、キリスト教におけるイエスもそのような存在であった。新約聖書には、イエスが悪霊にとりつかれた人(現代でいうと広い意味での精神疾患に苦しむ人々であろう)や、目・耳が不自由な人、ハンセン病患者などを次々と治していく場面が描かれる。

非科学的だ、と笑うことはたやすいでしょう。しかしひどい差別に苦しんでいた人たちに対して、「この病気はあなたの罪のせいではない」ときっぱり語りかけ、恐れて誰もが避ける患者に直接手を振れた。それだけで心理療法として高い効果をもったのではないでしょうか。イエスは今でいえばすぐれた精神科医、冤罪に苦しむ人や弱者のために命をかけて闘う人権派の弁護士のような存在で、そこにこそ宗教にとって本質的な癒しの役割が集中していたと考えられます。

震災後に出版されたこの本では、今こそ、長い伝統をもつ伝統宗教の出番だ、と説く。なるほど、と思う。

しかし、さまざまな宗教家のあとに大トリで出てきた養老孟司(解剖学者)の宗教を超えた達観が超強烈でかなりさらっていったりもする(笑)。

意識なんて人間のほんの一部ですよ。こんなあてにならないものはない。すぐなくなるじゃないかって私は言うんですけど。
(中略)その程度のものが世界の中心を占めるというのは、やっぱり一種の偏見、錯覚ですよ。やはり日本が都市化して、無意識的なものが隅に追いやられてしまったからですよ。自然は人間の意識ではコントロールできません。死も自然現象の一つですから、コントロールできるはずがない。
(中略)なにしろ人間の致死率は100%なんですから。

さて、日本で生まれた日本の宗教、神道が、初詣やお宮参り等を通じて現代生活にも残っていることは明らかだが、この本では一歩進んで「日本人の宗教観」について、昨今のパワースポットブームとも絡めて興味深い言説をする。

日本人は、超自然的なものに対する畏れのような宗教意識をしっかりもっていて、神社でも寺でも教会でも、その施設を蹴飛ばしたり貶めたりしない。自分がどの宗教を信じているか(いないか)とは無関係に。イスラム教にピンとこなくても、モスクに土足で入ろうなどとは思わない。誰かが神聖な場所と思っているならば、大切にしなければと思う。

ある宗教、ある神しか認めないという排他的な思いはもたず、しかし、広く神仏を信じる気持ちはもっている。それが日本人だと。

まったくそのとおり。八百万の神々を戴く国だからこその寛容性は誇れるものであろう。もちろん、このような寛容は、裏を返せば自己主張の弱さや流されやすさとの表裏一体のものかもしれないが。

それにしても、この部分を読むと、昨今はびこる嫌韓・嫌中、ヘイトスピーチ、弱い人を平気で叩く風潮について思わずにはいられなかった。寛容とは程遠い精神性も今の日本には見られる。これは、絶対的な神を持たないがゆえに「長いものに巻かれる」民族性ゆえか、社会が西洋化・都市化したために排他的になったということか・・・。排他的な側面を持つ一神教が、砂漠など厳しい環境で根づいたのならば、今の日本の排他性も、厳しさ・生きづらさが寄与するところがあるのだろうか?