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睦月の一 / Nスペ「戦後70年ニッポンの肖像」

●元旦: 寒い寒い年明け。外は雪化粧。義父を中心に作られた正月料理をお重に詰めたりお皿によそったり。お重につめる作業はパズルゲームのように感じるのか子どもも喜んで手伝う。お雑煮は、丸もちを煮たもの。カツオ菜、鯛、鶏、椎茸。お刺身は、ブリとマグロとサーモン。おせちのお重には、えび、かに、田作り、漬け焼き(イカとサバ)、出し巻き卵、辛子レンコン、チーズ、ハム、かまぼこ。それぞれのお皿に、数の子、大根の酢の物、がめ煮、黒豆。毎年のことながら、すごい量である。習わないとと思いつつ・・・義父に習うのって義母に習うのとまたちょっと違うから言い出しにくくて・・・(という言い訳)。

ニューイヤー駅伝4区に東洋大出身の設楽兄弟。兄(啓太)は1位でタスキを私、弟(悠太)が区間賞を獲った。相変わらずSUGEEEEE!!! お元気そうで何より!!! ほかにも4区は、今井正人、窪田忍、村澤明伸など近年の箱根スターぞろい。続く5区も、宇賀地強、出岐雄大、服部翔大、柏原竜二などまたまた箱根の猛者たちで、テレビから離れられんったらないぜ!! 都市高速が通行止めになったとの速報が流れ、早めに辞去することに。市内もさすがに寒い。サクが自転車するというので散歩がてらコンビニに行って、新聞を買う。雪があちこちに残っていたり、軒先からぽたぽた水が落ちてくる様子を面白がって見てた。夜ごはんは、ちゃんぽん。と、もらってきたおせちをちょこちょこつまむ。今夜は休肝。元日だけど休肝!!!(がんばったアピール)

Nスペ「戦後70年ニッポンの肖像」を見る。タモリ堺雅人半藤一利中園ミホ。有働&三宅アナウンサー。映像、編集もさることながら、トーク部分がかなり面白かった。タモリ堺雅人もホント知的。知的で教養がありつつ面白くて良い仕事をしているメジャーな人って何だか有難い存在。

オープニングから飛ばすタモリ。「1945年8月22日生まれ。誕生日はあまり言いたくない。昭和19年秋、敗色濃い日本でうちの両親はいったい何を考えていたのかと」(笑)。その日は気象予報が再開された日だった(戦争中は軍事機密のため非公開)。タモリが生まれた福岡の気温はその日、34.4度。「おふくろも大変だったんだな」本当にねー。戦後、「涙が出るくらい空腹(半藤一利の経験談)」だった時代。トラックから落ちたトウモロコシを拾い集める人々。タモリ「敗戦を終戦といい、占領軍を進駐軍と言う。アメリカに負けたのに、日本人はなぜマッカーサーを親父のように慕ったのか? もっとも大きな疑問だ」。

朝鮮戦争で一気に景気がよくなるのを肌で感じでいた子どもタモリ。「引き上げ者とか、極貧の人々も、なんとなく仕事が見つかったり、着るものが良くなったりした」。朝鮮戦争で壊れた戦車の鉄などを使って作られた東京タワー。当時の国鉄・十河総裁のおそるべき政治力で敢行された新幹線計画。1964年、東京五輪。「そのころ家でヒマなのはじいさんと私だけだったので、テレビでよく見ていた」。もっとも記憶に残っているのは?と聞かれると間髪入れず「閉会式です」。国や地域関係なく、バラバラで仲良く入場してくる閉会式のスタイルは東京五輪が初めてで、衝撃的だったという。それを見ていた祖父が発した一言も忘れられない。「戦争なんかしちゃだめだね」。モーレツ社員、公害。「そのころから日本国と距離を置くようになった」とタモリ(笑)。


バブル。物件を担保に融資するので20億のビルを買え、という勧誘を断ると、「あの人はバカだね。計算できないんだよ」と銀行業界で噂されたタモリ。数年後、3億で売りに出ていた。「弾ける予想なんてなかった。もうしばらくは続くと誰もが思っていた」とタモリも半藤も。けれど「バブルが弾けてからがバーや飲み屋も最も面白い。空気が軽ーくなって、その人らしさが出るようになった」。

そして、最後に「新年そうそうブチ上げていいですか」と前置きし、「これからの時代、行き詰まっている従来の資本主義に何かを加えて新しいものにしていく必要がある。それを世界にさきがけてできるのは勤勉、従順、秩序だった日本人ではなかろうか?」とタモリが、あのタモリが!提言したのは驚きだった。

酒は飲まなかったけど大概夜更かししたー。