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『問題のあるレストラン』 第6話

ドラマ

先週、予告を見た段階では、烏森さんのやけにステキなモノローグに「もしや、この回で烏森は死ぬのか?!」と思ってた。肉体的な死じゃなくても、藤村五月のような「社会的な死」だとしても。

蓋を開けてみたらまさかの弁護士で、なんと今から泥水すすって戦うと言う。

並行して、千佳・新田・川奈が広い野原で互いの共通点だったシューベルトを聴くというすばらしく美しく幻想的な映像が流れ、たま子の涙も含めて、度肝を抜かれ心に残るシーンになりましたが、おいおいと思わなかったでもない。

振り返れば一話冒頭で、裁判についての見識を述べてたし、今回、新田の画像を強制消去するシーンはあったけど、ここまで見てて、烏森が若い3人を好きになっていくとか、藤村五月の件まで遡って戦う決意をする心境は、視聴者にはほとんど感じられなかったと思う。その唐突さを、あの「魑魅魍魎を封じる箱」を開けたことで表現してたってことなんだろーけどね。パンドラの箱を開けてしまった、っていうか。

(あれでいろんな災いがふりかかってくるんだけど、「足が臭い」ってのをぶっこんでくるのが坂元脚本の痛々しさだなーと思った。いろんなアンラッキーがあるけど「足が臭い」のインパクトたるや。)

で、唐突さを感じはしたんだけど、もちろん、ここからの展開を念頭において書きはじめられた脚本のはずで、このドラマは、作品で扱っている問題をそういう俎上に上げようとするんだな、それを強調するためにこういう印象的なシーンを作ったんだな、ってことにちょっと感動した。


裁判になったところで負けるかもしれないけど、こういう展開を迷走ととる人もいるかもしれなくても、実際、もう既に視聴率的にも苦戦してるようで成功作とは呼ばれないかもしれないけど、このドラマが、「問題」をどこまでどういうふうに描いていくのか見届けたいと思ってる。見てるとかなり心がズキズキするんだが見たいと思ってる。

じゅうぶんな人気脚本家なのに、ここまで痛々しいものをプライム枠で書いてくる坂元裕二の業の深さの根っこはどこにあるんだろーか?とつくづく思う。これ、痛々しいって評価になるのは眼に見えてるのに放送にゴーサインが出てるのもすごい。

前回の三代目に続いて今回は西野カナを盛大にdisるのかと思ったら、すばらしい肯定だった! これで三代目の魂も昇華されたと思う。憎い腕だな、坂元。


ビニール傘が何本もある傘立て。ひとりの傘泥棒が最初に盗んで行って、2人目、3人目・・・と、それに気づかずビニール傘のどれかを持って帰って、最後に出ていく人にはもう傘がないから濡れて帰るしかない。そのとき、2人目、3人目・・・の人はわざとじゃないけど、謝れとは言えないけど、でもやっぱり傘泥棒に加担していると思う。濡れて帰った人のことを想像すべき。

こういうたとえ話が出てくるからテレビドラマって見るのをやめられない。青臭いと言われてもこれを真剣に書きたいという脚本家がいて、これを放送しようとする作り手がいて、心打たれて見る人たちがたくさんいる。希望だと思う。

このたとえ話に「なんでそうなんだ、もっとシンプルに考えればいいじゃないか」と門司が返すのもすばらしかった。門司は、同僚の川奈のことも星野のことも徹頭徹尾「関係ない」と思ってる。一方で、姉や弟とはずいぶん仲が良いらしい。彼の身内感覚はごくごく限られていて容易なことでは広がらないし、恋愛相手であるたま子に対しても、彼女の気持ちを考えるより「自分が何を示せるか」の優先順位がずっと高い。

それは身勝手な生き方なのか? けれどシンプルではある。動物には「いま・ここ・私」しかないし、自分以外ならせいぜい子どもしか守らないだろう。人間だって、世の中が複雑になればなるほど、守れる範囲は限られてくるのかもしれない。自分を保つためには余計な情報なんか入れない方が生きやすいのかもしれない。

人の痛みを感じ、正しいことを正しいと言い、乏しい装備で戦うたま子の生き方がすばらしくても、真似しようと思える人間はごく少ないだろう。でも、知りたいのは、たま子の生き方のゆくえ。門司の言うシンプルな生き方と対極のめんどくささ、痛々しさがどこに向かうのか? 両者はクロスできる点があるのか? 

一話の「女が幸せになれば男も幸せになれるのに」、今回の「私はあなたと仲良くなりたかった。いい仕事がしたかったんですよ」が示唆する部分はあるんだけどね、でもわかんないなあ、まだまだ。ぞくぞくする。