『戦国大名の外交』 丸島和洋 (メモ3)

戦国大名の「外交」 (講談社選書メチエ)

戦国大名の「外交」 (講談社選書メチエ)

●交渉ルート

・外交の交渉ルートを「手筋」という。

北条氏康上杉謙信との「越相一和」構想の交渉。開始段階において、「氏康・氏邦ルート」「氏照ルート」の2つの「手筋」が存在していた。このとき、氏康は、「本件の取次として、氏邦・氏照の2人ともを採用するか、あるいはどちらか1人だけしか必要ないか」を上杉謙信に問い合わせている。

ただしそれは表面上の問いかけであって、本心では「双方を取次として関わらせたい」という自身の意向を示している文面である。北条家内部において、氏照の交渉は独断で孤立したものであったが、氏康としては内政上、氏照を見捨てるのも良くないという腹があった。このような高度な交渉も、外交においては行われていた。

・氏康は、まずは氏照の体面を尊重したものの、実際の同盟実務においては氏邦が重用され、氏照は交渉の半ばで存在感を消す。

・この同盟が間もなく破棄されたとき、同盟に深くかかわった氏邦の外交上の発言力は低下し、逆に氏照の発言力は向上。また、側近として取次を務めた遠山康光は北条家中から姿を消し、上杉に亡命して、以後、景虎の家老として動いた。

・このように、外交関係の変化が取次たちの進退に大きな影響を及ぼす例はまま見られた。石川数正徳川家康のもとを出奔して羽柴秀吉のもとに走ったのも同様の例である。

●取次の独断専行・取次に与えられた報酬

島津義久の家臣・上井覚兼は、自らが取次ぎをつとめた入田宗和のため、義久の意向に逆らって、指揮下にある軍勢の出陣を中止させたうえ、独断で園軍派遣を実施しようとまで考えた。

・同じく島津義久の一門衆(家臣)、島津家久は、国衆を従属させようとする際、独断で事前交渉を行い、虚偽の報告さえもした。

・取次は、取次相手と接触を重ねるうちに、相手と密着し、大名の意図を超えた強いつながりを持つことがある。その結果、「外聞実技笑止」つまり、取次ぎとしての責任を放棄することで受ける非難を恐れるようになり、独断で動くことも辞さないようになる。従属を仲介して進退保証に責任を負った取次ぎが、交渉相手を見捨てたと思われることは絶対に避けなければならない、とする観念が存在していたと思われる。

北条氏康が作成した『北条氏所領役帳』によると、武田信玄の重臣、小山田信有は、北条の所領、武蔵国に知行地を持っていた。氏康は、自家に対する取次に、報酬として知行地を与えていたのである。いわゆる「取次給」。北条だけでなく、さまざまな大名や国衆が同じことをしていた。

・こういった知行宛行によって、取次と、取次相手の大名(国衆)との間に主従関係が生じるわけではない。取次は、あくまで自身が取次を務める大名(国衆)の家臣であり続ける。取次相手の大名(国衆)もそれを臨んでいる。

・担当取次に知行地(取次給)を与えることによって、その取次と密接な関係を築くことが目的。外交関係の安定への寄与や、より自家に有利な交渉成果を獲得できるように、取次ぎに働きかける材料にもなりうる。