『おかしの家』 完走しました

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東京の下町、路地裏にあるらしい、古びた駄菓子屋「さくらや」。客が来なくなって久しい店を守るのは、30を過ぎた男・太郎(オダギリジョー)と心優しい祖母(八千草薫)。店裏には、うだつのあがらない友人たちが日々集まって駄菓子を食べている。やはり昔の同級生・礼子(尾野真千子)がシングルマザーとして町に戻ってきて…。

脚本も演出も新進の映画監督がつとめると聞いて、最初は、良くも悪くもカルト的なドラマなのかなと想像した。実際に見てみると、郷愁あふれる画作りと繊細な音楽。過剰さを排した脚本を、抑制された芝居で演じる役者たち。最初の頃は、冴えないけれどあたたかく、ちょっぴり切なく続く日常が描かれるのかと思ってた。深夜にまったり見るのにふさわしい、癒し系のドラマになるのかと。

冷や水をかけられたような気分にさせられたのは、7話。銭湯をたたんだ後の再就職活動がうまくいかずクサる嶋田久作をかばって、こちらはトントン拍子で就職先の決まりそうな前野朋哉が、車に撥ねられて死んでしまう。終わらない日常を貪っていた仲間の一人が、ある日突然消えてしまう衝撃。足元にぽっかりと穴が開いて、漆黒の闇が広がるような・・・。





物語はそこから急転回を見せ、8話で主人公の太郎は礼子と再婚し、さくらやを閉め、スペイン料理店にやとわれて厨房の仕事を始める。・・・や否や、妙な裁判に巻き込まれ、祖母は自ら養護老人ホームに入ることを決意、太郎たちも居を移す。

最終話で、太郎は流行りのスペイン料理店のシェフ兼オーナーとして多忙な毎日を送り、さくらやの店裏でくすぶっていた親友・三枝は脚本家としてときめいている。いやいやいや2015年に、30過ぎの未経験ヤローたちがそんな簡単な成功なんて・・・と思わされるのだが、これは現実を描くための展開だった。現実・・・いや、真理とでもいったほうがいいかな。

祖母をホームに見送るのがつらくて、「お金が貯まれば必ずまた一緒に住む」と決意していた太郎だったが、2020年、十分裕福になったことが窺える家に、祖母の姿はない。それどころか、もう半年近くも、ホームの祖母に会いに行っていないことが明かされる。

太郎の店に人気女優を伴ってやってきた三枝は盛大に酔う。「俺のドラマを見ているか?」忙しくてなかなか見られない、と苦笑する太郎。「それでいい」と三枝は言い、さらに問う「おばちゃんに会いに行っているか?」表情を変える太郎。「人間は忘れていくんだ」と、三枝。

やがて、太郎のもとに、祖母の容態が悪いという知らせが届く。かつて、店裏をたむろする野良猫を抱いてかわいがっていた礼子の連れ子、春馬は、5年の間にすっかり鼻もちならない少年になっていて、祖母のところに行くのを嫌がる。太郎は礼子を乗せて車を走らせる。優しい祖母と、ヒマな駄菓子屋の前に座っていたころの回想が流される。冴えなくて無為で幸せだった日々、もう戻れない日々。ドラマはそこで終わる。

最終話(10話)のサブタイトルは「忘却」。先駆けて8話に、年を重ねてもしっかりしていた祖母が、太郎の名を呼びあぐねるシーンがある。太郎はそのことがたいそうショックで、「俺を忘れないで。そうじゃなきゃ、俺ここにいる意味がない」とまで言って、泣く。それまで、礼子の急く気持ちにまったく無頓着だったのにあっさりと再婚を決めたのも、いわばそれがきっかけだった。

しかし最終話、忘れているのは太郎たちなのである。太郎も礼子も三枝も春馬も、あれほど大切だったおばあちゃんを忘れ、過去を忘れ、今を軽やかに、忙しく満喫している。失おうとするときに初めて思い出すけれど、もう取り戻せない。

とても残酷なのだけれど、このドラマはその残酷さ断罪するのとはちょっと違う。それが、生きていくということなのだと思わされる。さくらやの倦んだ甘美な日々に、いつまでも留まっていることはできなかった。太郎も三枝も動き出して、今を生きている。今を生きることは、常に忘れ続けること。時が止まったかのようなさくらやで、おばあちゃんが、子どもの頃の礼子や、ソープ嬢だった成海璃子の面影や、幼い太郎と三枝の友情の日々をいつまでも心に留めて忘れずにいたこととは対照的。

振り返れば、3話。太郎と三枝は、小学校時代、クラスメートの女子をいじめていたことをすっかり忘れていた。仲間の死のショックも、続く日々の中で少しずつ薄れる。そして、生活から消えたおばあちゃんのことも。おそらくは、おばあちゃんがこの世を去った後にはまた、いずれ日常が戻って来る。

いじめや、友の死や、遠くへ去りゆく友。新しい家族。突然巻き込まれる理不尽な事件。ドラマを見ていると唐突だったりエキセントリックに思えるようなことも、人生にはまま起こる。そして、さくらやの維持を「意味がないとは思えない」と言っていた太郎が、今やさくらやをすっかり忘れたかのように生きているのだが、その残酷さを内包するのが強さであり、その強さがなければ生きていけないのだ。

その強さを、太郎が「強くあろうと」意図したわけではなく、祖母の物忘れがきっかけで・・・つまり、「年月を重ねて不可抗力的に」獲得した、という描き方がこの作品のキモなんじゃないかと思った。祖母を失い一人ぼっちになることを太郎は恐れた。だから再婚した。礼子もまた、一人で子どもを育ててゆく人生に詰んでいた。

身を寄せ合った淋しい二人の新しい生活によって、結果的には「忘れられた」祖母を、最後まで優しくあたたかく誇り高い存在として描いたのも、心に残った。ファンタジー的であっても、世にも美しく年をとった八千草薫は「人は、忘れながらでなければ今を生きてゆけない」という、この世の自然の理を知っている賢者にふさわしい。彼女はこの物語の最初から、さくらやをつぶすべきだと、太郎は前に進むべきだと言っていた。

オダギリジョー、尾野真千子が確かな生活者としての息遣いを醸し出すのは当然として、勝地涼もすごい好演。「ど根性ガエル」に続いて2015年の助演男優賞。

それにしても、石井裕也というまだ年若い監督の才能がテレビドラマで見られたのが何より僥倖だった。彼の世の中への目線を、他の作品でも見てみたい。忘れながら生きていく真理を描きながらも、その中で祖母の糠漬けが生きていることも描いていた。太賀に訴えられたときの「これだから戦争がなくならないわけだよ」も印象的だった。

 

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