『杏のふむふむ』 杏
2009年から、「webちくま」でやっていた連載をまとめたもの。朝ドラ『ごちそうさん』よりずっと前なのはもちろん、『妖怪人間ベム』でのベラ役ですら、この本でいうとかなり後半になってからの出演。女優としてのキャリアがスタートして間もないころから、ぐんぐん軌道に乗り始めたころまでに書かれたものだと思う。
「出会い」がテーマになっていて、さまざまな人やものと出会い、見たり聞いたりして著者が「ふむふむ」と感じたことが綴られている。杏が読書家で、自他ともに認める「歴女」であることは知っていたけど、こりゃ、ほんまもんですな。芸能人が雑誌等で連載を持つことはよくある(そしてそれがユニークで面白いこともよくある)けど、各回、原稿用紙にして10枚分くらいの分量でつとめるのはかなりレアなことといっていい。それを、口語調や散文調ではなくきちんとした文章で、起承転結のある「エッセイ」という形でまとめているのだから、もちろん担当編集者がいるとはいえ、これはかなりの力量なんじゃないでしょうか、杏ちゃま。
出会いの内容はといえば、小学校時代の先生や、おじいちゃんや、10数年を一緒に過ごした犬など、幸福な子ども時代の思い出。堺雅人や、黒柳徹子や、「ベラ」など仕事上での出会い。キャッチボールの相手をしてくれた行きずりの男性や、歴ヲタ友だち、そして数奇なさだめにより「出会えなかった出会い」などの変わり種まで。全26編、20代半ばの女性が書けるバリエーションとしては、大変広いんじゃないだろうか?
これを、「そりゃあ芸能人だし」とか「しかも親も大物俳優だし」って思わせないのがこの本のすごいとこ、杏のすごいとこで、「こういう思考や感性や行動力を持っている子だからこそ、トップ女優への道を駆け上がったんだな」とほとほと感服であります。
『初めてのニューヨーク』の章。19歳で単身ニューヨークへ渡った彼女の目的は、ホームステイでも留学でもなく、モデルの仕事。しかも決まった仕事のためにではなく、行って、探すんである。まず所属するモデルエージェンシーを探し、次には出演できるショーを探す(キャスティング、というらしい)。1日15か所ものキャスティングの場所へ、地図を見ながら自力で辿りつかなければならない。受付の時間帯と住所とを照らし合せて、効率の良い回り方を考えるのも自分。そこでモデルとしてのパフォーマンスとポテンシャルを見せつけるのも、もちろん自分。
それだけでもすごいのに、次の章は『セ・パリ』、今度はフランスやミラノでのモデル経験である。「こういうやり方はニューヨークと違うけれど、ああいうところはファッション業界、世界どこでも同じ」。こんなグローバルなことを20代の前半に彼女はもう体験していたわけだ。
そうかと思えば、学生時代の友人一家と、死の危険すら間近に迫るような穂高連山への登山を決行したり、通っている歯医者さんと「ノブトモ」=「信長友だち」になったりと、ローカルな話題にも事欠かない。ユーモアもあるし、イラストも上手。
この、気持ちのいい、視界の開けたエッセイをもちろん私は楽しく読んだのだが、読み終わると「次はこれ以上のものを!」と思ってしまったのだった。
女性タレントや女優さんが「ステキな私の素敵なライフスタイル」を披歴する芸能人本とは一線を画した、知的かつダイナミックな本なのだけれど、得難い経験の数々の下にあっただろう心のざわめきや沈殿するものは綺麗に覆われたままになっている。「ふむふむ」はあっても、「もやもや」や「ぎりぎり(歯ぎしり)」は、この本にはない。
もちろんそんなものを一般読者向けに公開する必要性は、彼女にはない。イメージだってあるし、何を見せるか・見せないかは ”女優として”という以前に、彼女の生き方の問題だ。でも、これだけのことができて、考えられて、書ける人なのだから、人間だれしも心の中にある澱とか闇とかについても、きっと力のあるものが表現できると思う。
歴史にハマった経緯をEテレ『スイッチインタビュー達人達』でちらりと語っていたときにも思ったのだが、歴史好きにも、単身海外デビューにも、彼女が少女のころに経験したこと、そこで多感な彼女が感じたことが大きく影響しているはず。良いことにせよ、しんどいことにせよ。
今後も様々なキャリアを重ねて行って、30代、40代とかになった彼女が、いつかいろんなことをチラッ・サラッと混ぜて書いてくれたらいいな、って勝手に思ってる。