『あさが来た』 第7週 「だんな様の秘密」 ツイートと追記(長文注意)

















































ふう、ツイート転記するのも疲れる量(笑)。今後は省力化する方向で考えよう・・・


※以下、めんどくさい話なんで、お読みになるかどうかは「自己責任」でお願いします(笑)。


さて、ツイート中でも紹介したやまねさんのブログにあるように、「あさが来た」は一言で言うなら「まぎれもないプロの職人芸」で、私も第一週目ですでに泣かされたクチだし今も毎朝楽しんでるんだけど、あまりにも「愛されドラマ」なもんで懐疑的な目で見ちゃう、ってとこです。そうです、『まれ』の反動です。嫉妬です。

『まれ』のどこがダメでどこが不快だったのか、それに比べて『あさが来た』のどこが良かったのか。一方で、『まれ』を大事に思っている人はなぜそうなのか。いろんな人がいろんなツイートしてて興味深かったです。私も、いろいろつぶやいて、「そうか自分はこう思っていたのか」と発見したような気持ちになったり、さらにそのツイートに対していろんな反応があったりして、出してみる/投げかけてみることって有意義。

まれとの比較に限らず、あさが来たの良さについて「テンポが速い」「ストレスが少ない」「元気が出る」という意見をよく見ます。丁寧に言うと「テンポが速い・・・のに説得力も感動あるストーリー展開」「ストレスが少ない=人物造形も話の流れもわかりやすくて納得がいきやすい」「登場人物が魅力的で応援したくなって・・・こっちも元気が出る」とでもいうか・・・。その意見、よくわかります。あさが来たは、ほんとに見やすい。

翻って、まれは見づらいドラマだったなーと思います。それは脚本の問題であり演出の問題でありetc。

そこで私が考えるのは、どんな理由であれ「だから合わない・きらい」と思った人と、「それでも(?)あのドラマが好きだった・しっくりきた・印象に残る」と思った人との違いです。

それは、まれに関心がない(あるいは不快感しかないとか)人にとっては
「そんなの感覚でしょ / わかりきってるでしょ(たとえば脚本演出が拙劣だから)」
って話なんだろうけど、
「欠陥があったとしても自分は大事に思った、それはなぜなのか?  そして、なぜそれは他の大多数の人には受け容れられないのか?」ってのは、やっぱり気になるもんです。

まれがOKな人・NGな人、何か共通点があるのだろうか? 朝ドラは日本を代表するドラマ枠で、「枠」の視聴者というのが多いはず。今の社会とのかかわりは? 「枠」の視聴者の傾向は?

そうやって考えたとき、私にはどうしても「自己責任」それに関連して「生きづらさ」って言葉が浮かんできます。いや自分はそんな言葉とは関係なく「まれ」が好きor嫌いなんだ、「あさが来た」が好き/嫌いなんだ、と言う人もたくさんいるでしょう。そんな一人一人に対して「いや、絶対そうでしょ」って言うつもりはありません。自己責任「だけ」が理由とも思ってません。

そこが(見方によっては過剰に)気になるのは、私が普段から、またずっと前から、「自己責任」という考え方に嫌悪感や危機感、もっといえば恐怖感を持っているからだと思います。社会的に弱い立場の人の「生きづらさ」を軽減することはできんもんか、と考えているからだと思います。

このあたりを説明しようとするとそりゃもう長くなるし、自分語りも入るし、何よりまだしっかり分析できているわけでもないし。これから私が自分の人生の中で考えていくこと・・・というか考えたくなくても考えちゃうことだと思います。よって、とても個人的な問題だとも思うんだけど、でも私が現代社会で生きているからには社会的な部分にもまたつながっていくんじゃないかとも思っています。どっちにしても、思うことあればまた書くかも。


あそーだ、あと今回、私、こういう、センシティブなことについて自分の意見書くのって、あんまり怖くなくなってるな、と思った。まったく怖くないわけじゃないけど、なんだろ、友人流にいうと、「私はこういう人間だ、と言ってるだけであって、”こうしてほしい”と言ってるわけじゃない」と私も思えるようになってる。

これは、年を重ねて厚かましくなったというのもあり、”意見出し慣れ” したというのもあり(ママじゃなの経験は大きい)、でも一言で言うと「動くことに意義がある」ってのを前より強く感じてるからだと思う。声を上げること・行動することで何かが伝わる・何かが動き出す可能性があるなら、多少のリスクを払ってもそうしたらいいじゃないか、と思ってるからだと思う。

その「リスク」の中には、「自分の発言/行動で誰かを不快にする・傷つけるリスク」もあります。それで「しまった」と思ったら謝るしかない。いや今さら謝られてもね、ってこともあるだろうし、謝る機会がない場合、そもそも傷つけたことに気づけない場合もある。その代償としては、批判されたり陰で叩かれたり、そっと離れていかれたりすることになるんだと思う。それは甘んじて受け容れるしかない。声を上げる・行動するってそういうこと。

 

(以下、自己責任推奨部分終わり(笑))


で、こーゆーこと考えるための材料のひとつとして「あさが来た」は私にはとても有用だったんですけど、考える材料になることはあらかたいただいた気がするんで、そうなると、この先、このドラマを見続けるには別のモチベーションが必要になるんですが、果たしてそれが自分の中にあるのかどうか、ちょっと疑問に思えてきた今日この頃。

私、新次郎さん萌えもないしね。中の人には超感心してて、世間の評価も上々だし、今作が今後のキャリアに生かされるのが楽しみですが、私は「新次郎・粋の所作集」ていうスペシャル番組を作ってもらって、それだけ録画保存すればいいかなって感じ)。五代さんは今んとこ面白い当て馬でしかないし。五代友厚の業績をやってほしいと願うのは朝ドラにふさわしくない願いだろうし。「まれと比較しながら見てしまう」っていうのが念頭にある限り、私は職人芸を素直に楽しめないわけなんでね。はてさて。