葉月の九 / 首相、戦後70年談話

●8月某日: 「のんびり過ごす」がテーマの日。サクをペダル無し自転車に乗らせて、私は伴走して図書館へ行く。片道、1.5キロ弱。途中、水筒休憩など挟みながらのんびりと。図書館内に入ると「すずしーい」と歓声をあげたサク、続いて「もう5さいだから、5さいっぽいほんをかりたほうがいいっちゃない?」と言った。「5才っぽい本」がどういうものを指しているのか興味津々で尋ねるも、よくわからず。絵本を3冊と、私が見る雑誌を1冊借りて、えっちらおっちら帰る。夜ごはんは、焼きそば。夫が昼にラーメンを食べたというのでアララかぶっちゃったーと思ったが、「美味しい、美味しい」とおかわりしていたのでよしとしよう。金曜日だけど休肝

安倍首相、戦後70年の談話。最初は「長ェな」という印象(こういうブログやってる奴が、どの顔して・・・て感想だがw)。しかし何度か読むとナルホドねーという感じがしてくる。こういうのはあとあとまで残って吟味され重箱の隅までつつかれるからね。

先の大戦についての述べるにあたって、20世紀の帝国主義から話を始めたのには意表をつかれたけど、たったこれだけの総括でも国民に向けてという面では意義あるんじゃないかと思った。「かつて経済のブロック化により孤立を深め、暴走していった日本」に対応して、後半の「自由で公正で開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界のさらなる繁栄を牽引してまいります」、「暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に医療と教育、自立の機会を提供するため、一層力を尽くしてまいります。」になる。これさー、世界のあらゆる人々以前に、国内の貧困とか教育とか自立の機会もしっかりよろしくね、と言いたくなるところではありますね。

ま、とりあえず、このくだりといい、「子どもたちに謝罪を続ける宿命を負わせては・・・」といい、従来の「反省」や「おわび」にとどまらず、“未来志向”の談話にしたいのだという意思がハッキリ見えたし、そのための、帝国主義時代からの歴史の総括なのだと思った。

もう一つ、この談話を特徴づけるのは、冒頭、歴史を総括するより前に前段として言われる「政治は歴史に謙虚でなければなりません。政治的、外交的な意図によって歴史が歪められるようなことが決してあってはならない。このことも私の強い信念であります。」の部分である。

これまで、先の戦争が侵略であったのか、ポツダム宣言の内容など歴史の解釈についてさんざん問いつめられそれに真正面から応対しなかったことを責められ軽んじられている首相だが、これが政治家としての彼の信念であるといわれれば、すべての対応は一貫している。歴史は歴史家が書く門的に研究するもの、あるいは後世の人々(一般人)が評価するものであり、いま現在の政治にかかわる者が歴史を論じれば、そこには政治的、外交的意図が入ってしまうのだと。だから、彼は歴史を解釈しない。ただ結果として失われた命や苦しんだ人々に対しては痛切の念を感じ、二度とこのような結果を繰り返さないように努める、それだけが政治家の仕事であると。

読み込むと、ロジックとしてよくできてるんですよね、正直。そうやって読み込まれても大丈夫なようにロジックを構築しててこういうふうに長くなったんだろうし、(それに賛同するかしないかは別として)安倍晋三という政治家のカラーも出てる。肝心なのは、閣議決定を経て出される以上「政府としての意思」になるわけで、この意思自体にまずいものは感じないってとこかな。

それにしても、政治家の言葉としては、非常に叙情に走ってる印象なんですよね、語彙の選び方とか文章の運びとか。ちょっと陶酔的に感じる。陶酔的な政治家って困ったもんですよね。シナリオライターがまとめているだろうけれども、こういう成果物になるって首相のセンスなんだろうな。国会で「私が総理大臣として判断してるから正しいんです!」みたいなこと言ってるのを普段見ている国民としては、この陶酔感にうええええと感じざるを得ない部分がある。話し方も、重々しく見せるためなのか、文章が長すぎて頭に入りにくかったのか、原稿を見ィ見ィ、かなり区切ってゆっくり話してるのが、どうも「自分の言葉」で喋ってないような印象も持ってしまう。

こういう談話は(特に通訳を必要とせずリアルタイムで内容がわかる国内の視聴者にとっては)「印象」が大事だし、もちろん「言質」になるわけで、だからツッコまれないように「短く、コンパクトに」ってのが小泉だったと思う、逃げるのも煽るのもワンフレーズ。安倍晋三は真逆のベクトルなんだなーと思った。どっちが頭がいいかっていうとちょっとよくわかんない・・・っていうかどっちもあまり・・・。問題は、こんな首相でも自民党の中では頭がよさそうに見えることだ・・・。