『まれ』 終わりました
最終回で主人公にテーマ的なものを長口上させるドラマは駄作。って言われるとわかってて、この最終回なんでしょうか、 #まれ さん。うふふあはは。んもう、まれさんらしい! #まれ応援
社会資本文化資本、何も持ち得なかった不器用な子が不器用なままで生きていくのを不器用に描いたドラマだったと思う。私はそこに惹かれてたけど、その不器用さを世間というものがどう受け止めるのか、それがこのドラマに対するTLの反応だなって感じで見てた、賛否両方とも。#まれ #まれ応援
まれだけじなゃなくて、藍子も一子も文さんさえも「不器用な女の子」で、藍子をついに最後まで断罪しなかったのがこのドラマらしさだと今は思ってる。母としての罪ではなく、あれも一つの、不器用な生き方で、ドラマの中で彼女はその不器用さの代償を払い続けていた。#まれ #まれ応援
このドラマを出来が悪いとして低評価する人は多いけど、やりたいことがハッキリしてて、それをハッキリ描いたドラマだったと思う。その「やりたいこと」は、朝ドラ視聴者層の中ではひと握りで、そんなテーマに興味はないんだよ、って人たちにとっては出来の悪いドラマだったんだろうと。#まれ
いや、私がこのドラマを出来がいいと思ってるかというとそうではないんですが(笑) 出来が悪くても愛おしい子、というか、、、その出来の悪さは瑕疵ではなく必然として見てた、って感じかな。#まれ
名言集に「お母さんを捨てなさい」が入ってたのはすごい意図的なんだよな。自らも持ち得ない環境で育ったゆえに毒母にならざるを得なかった藍子は、あんな不器用でひどい言葉でしか娘を送りだせなかった。あれが彼女の精一杯。でもあの言葉があったから希はなんとか外に出ることができた。 #まれ
で、欠陥はあっても愛情は受けて育った希や一徹が、不器用に悪戦苦闘して自分たちの道を切り拓いている間、徹は潜伏生活で藍子は一人で待ち続けるだけ。むごいなあ。報いのようでもあるけど、それが彼らの限界であり、子どもたちが自分たちの限界を超えてくれたことが救いになったんだと思う #まれ
でも、こんなこと書いてる私自身、いわゆる「出来のいいドラマ」「完成度の高いドラマ」派だと思ってたので、#まれ をこんなに好きになったのは意外だった。ドラマの魅力とは何か、あらためて考えさせられる。あー、最後、たおちゃんのウェディングドレス姿が見られて超うれしかったよ。輝いてた。
明日はもう、まれやらないんだよね?
というわけで、まさかの「まれ」ロスに至った希なわたくしですがw
当初はこんなはずではありませんでした。土屋太鳳ちゃんへの期待はあったものの(とはいっても彼女の出演作は『花子とアン』で朝市に恋してるころのみしか見ておらず、のちに『あさイチ』のプレミアムトークを見て「なんていい子なんだ・・・!」とおばちゃん感激して好意をもっただけ)、むしろ、タイトルバックの美味しくなさそうなケーキを見て「こ、これでパティシエのドラマをやるですと・・・?」とドン引き
「夢嫌いの希」の設定にもまったく惹かれなかったし、裕子&泯のダブル田中も軽く無駄遣いっぽいし、大泉洋のダメ父設定はなかなか寒く、それに輪をかけて常盤貴子が毒母だし、村の「家族ぐるみのお付き合い」描写も苦手だし、山崎賢人くんも今作で初見だから思い入れなかったし直情型の圭太にもピンとこず、開始1ヶ月ごろには「いつリタイアしてもいいな」と思ってたぐらいなんです。
でも、高校の仲間たちの青春模様がかわいらしかったり、大泉洋の芝居のテンポがやっぱり好きだったり、田中裕子の見せる映画的たたずまいがやっぱり魅力的だったりで、「見終わったあと引きずらない軽いドラマ」って感じで、なんとなくのつもりで見続けてました。
それが、「私、けっこう前のめりやん」とハッキリ気づいたのは幸枝さん登場したあたり。まれが登校前に朝市で働いたり喫茶店でアルバイトしたりっていうのが「けなげで明るい朝ドラヒロイン」とか「この経験が将来役に立ちます!」とかじゃなくて、両親からの搾取というハッキリした意図で描かれているのだと確信できたし、その母親もまた親から捨てられた子で、それが夫への依存&子どもからの搾取という無意識の負の連鎖につながっているのだと判明したこと。そこで描かれた藍子の感情の起伏や、母・幸枝との対峙。常盤貴子の演技も見事で、ああ、このドラマは切実だなあとぐっときた
それからはけっこう、随所でぐっと来てたな。そう、切実なドラマでした。一子と希の対峙もヒリヒリしてた。さあこれからってとこで希が妊娠したのも、双子が生まれてからのドタバタの一週間も、見ていられない気持ちで(笑)見てた。
いつしか、作劇のアンバランスさ拙さすらも切実さに輪をかける演出として捉えてたかも。
ネットを見るといろいろ叩かれた、日々叩かれてました。これまで影も形もなかった圭太母がいきなり出てきて嫁イビり始めるのは不自然だとか。うん、不自然だった(笑)。でも、それまでは出て来る必然性がなかったし、出てきてみれば、あの母親にしてあの圭太・あの紺谷課長なのだなという説得力はあった。漆にしてもパティシエにしても仕事の描写が雑すぎるという批判も多かった。ええ確かに(笑)。でも、思い出してみれば、『あまちゃん』の観光協会や震災前までの大吉だって仕事ナメた仕事っぷりだったし、北三陸コミュニティだってじゅうぶん気持ち悪かった。
同じAK朝ドラだし、同時期にBSで再放送をやっていたので、『あまちゃん』とは殊によく比べられて、『まれ』がクサされていた。全体的な完成度を問えば100人のうち90人以上が『あまちゃん』に軍配を上げると思う、私も含めて。クドカンは、細かなアラや、実は見逃されがちなデリカシーのなさなんてねじふせるような腕力を持ち、吹き飛ばすようなカタルシスを描いた。視聴者の多くは朝ドラにそういうものを求めている。このドラマの「切実さ」は(切実さ「だけでは」と言い換えたほうがいいかな?)、それほど多くに訴求しなかった。
そのことがなんかちょっと切ないというか、世知辛いというか、ふてくされるような気持ちがどっかにある。ドラマなんて好き好きだと思うけど、テレビドラマとは「世に問う」作品だと思うし、その結果は世相をうつすものだと思うので、このドラマのいいところ、私が好きなところはマイナーなんだなーって、ちょっと淋しいよね。
でもま、そういう認識を新たにするのもまた、ドラマ視聴の面白さではある。それに、ツイートにも書いたけど、自分自身、「完成度の高いドラマ」が好きなたちだと思っていたので、「まれ」みたいに歪つで拙いドラマに魅力を感じたことは発見でもありました。