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『日本文化の形成』 宮本常一

 

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

 

 宮本常一の著書にもまだまだ読んだことのないものがたくさんある。長い年月かかるだろうけど、折々に買い集め読んでいくつもり。この本はネットでポチッとして、いつものように名もなき人々に聞き取り調査などして書かれた、人々の生活誌のようなものだろうと思っていたら、古代の日本について考察されているので、こういう仕事もしていたのかと驚いた。なんでも、最晩年の講義や「遺稿」をまとめた本らしい。

日本各地をくまなく自分の足で歩いてまわった宮本さんが、人生の終わりに「日本はどのように成り立ったのか」について考えていたというのは、なんだかひどく示唆的だ。

日本の成り立ちといっても、宮本さんの興味は天下国家にあるのではない。この列島にはじめ住み着いたのはどのような人々であったのか? その後、どのような人々が、どのようなルートで渡来して、何をもたらしたのか? 日本における稲作の最初期は? 畑作は? など。ある意味、天下国家などよりもよほどスケールの大きなテーマかもしれない。そして、それは宮本さんらしい論点のように思える。

縄文とか弥生とか、古代になればなるほどわからないことは多くて、この本も著者の「想像」「推測」の域を得ないものが多く、古代の専門家から見ればいろいろと不備があるのかもしれないけれど、まあ宮本さんの書くものは面白いですね。

ここに書かれていることのほとんどすべてについて、私を含め現代を生きる日本人は知らない。それはもったいないことじゃないかなと思う。古代の日本(を中心にした東アジア)について何かを読むたびに、私はすごく元気が出てくる感じがする。古代、舟に乗り海を越えて人々が往来する。農業や、造船や建築や、いろいろな新しい技術がもたらされ、伝播していく。長い年月をかけてそうやって進化しながら人間は生きてきた。日本列島と朝鮮半島、中国大陸の沿岸部には互いに行き来があった。

ヤマト朝廷以前の古代日本といえば、すぐに思いつくのは「邪馬台国」そして『魏志倭人伝』に見られる「倭国」だが、両者はまったく別の民族であろうといわれている。稲作はユーラシア大陸から朝鮮半島を経由して日本列島に伝わったもので、ヤマト朝廷につながる古代日本の「大王」もまた、大陸から渡来した征服王朝であることはだいたいの人がイメージとして持っていると思うが(今上の陛下が何年(十何年?)か前にスピーチで天皇家の祖先について触れたこともありましたよね)、本書によれば、稲作を伝えた渡来人と「大王」系の渡来人とは別であり、また、「倭人」と、「縄文文化人」とも別であるという。

つまり整理すると、

1.もともと日本列島に住んでいた「縄文文化人」。狩猟・採集・漁労などによって生きていた。のちに中央に王朝ができると、彼らは「エビス」とか「土蜘蛛」とか称される「周縁の人々」になる。

2.「倭人」。魚や貝、アワビを捕えるのが得意な一方、稲作をし定住する人々も増えている。中国大陸は揚子江から南の主として海岸地方に居住し、体に入墨をし、米と魚を常食する海洋民族だったとされる「越人」の習俗にとても近いことから、倭人は越人の一派に属するのではないか? 越人の勢力範囲は広く、舟を利用して、朝鮮半島のの南部から北九州へかけても植民地を作り、その一つが「倭」であったか? 同じく朝鮮半島南部にあった倭人の植民地が「任那」であり、深い親交があって、7世紀白村江の戦いで日本は総力を挙げてその地を守ろうとした(が大敗)。彼らが稲作をもたらした?

3.半島から渡来した人々? 侵攻という形で渡来したのではないが、武力的な要素を多分に持ち、やがて武力をもって統一王朝を実現した。

さらに、「縄文文化人」とはいっても、北方の、やがて「アイヌ」と言われるようになる人々と、南方の琉球列島弧に住んでいた人々とでは、当然、風俗が異なる部分が多々ある。北方の人々は、粛慎と呼ばれたツングース系民族(満州に住んでいた)と交易などで深いかかわりがあり、南方の人々は、揚子江付近から朝鮮半島付近に至る“黄海交通圏”とでもいうようなものに含まれていた。あるいは宮古島以南の先島諸島は、南洋~フィリピンにつながる文化圏に属していた。

古代、ここ極東の人々は、集団をつくり、民族性・地域性のある暮らしをしながらも、交易をしたり移動をしたりとゆるやかに交わり、長い月日の中で混血しながら時代を経てきたのだ。

いわゆる交易のためというのではなくても、島を出ていかねばならぬような事情は何年かに一度は起こっていたものであろうし、また小さい島々がひとつだけで生きていくのではなくて、お互いに助け合わねばならないような事情はあった。奄美大島の北につらなるトカラ列島は、島が小さいのでひとつひとつの島に住む人の数はそれほど多くなかった。そうすると男が適齢期になっても結婚の相手のいないことが多く、そのときは親島である奄美大島からあまっている女を配ったものであるといわれている。そうしなければ島で生存することは難しかった。

 

いずれにしても稲作が海のかなたから渡来したとなると、船に乗って来る以外にない。

おそらく稲作にかかわりを持つ人たちは船を利用しつつ漸次あたらしい世界を見つけていって、そこに住みつき、水田をひらいたものであろう。水田をひらくということはひとつの高い技術を持っているものである。畦を作り水をひく。そこにおのずから土木工事もおこなわれることになる。静岡県登呂遺跡や滋賀県大中遺跡では水田をつくるための苦心をよくうかがうことができ、しかもきわめて計画的である。そして登呂の場合はその水田の近くに住居が集中して見られる。

水田のほとりに住居があるということは、住居は土の乾くところに存在しなければならないし、水田も耕作しないときには水を落として乾くようにしていたに違いない。


長年にわたるフィールドワークで山村・漁村を研究してきたその目が見はるかす古代は、的を得ているものも多いのじゃないかなと思える。昭和初期や中期までは、まだまだ、そのような地域には昔ながらの暮らしが残っていて、宮本さんはブラタモリふうに言うと「歴史の痕跡」を捉えてきているところがある。文献や考古学的遺跡・遺物を専門にする人とはまた違った「リアリティのある古代」「現実的な説得力のある古代」が文章からたちのぼってくるような。

そして宮本さんの著書に限らず古代の東アジア諸地域の豊かな交流の末に「日本人」が生まれたのは歴史的に証明されているところだろう。そういう雄大なルーツを知ることは偏狭なナショナリズムからの脱却にひと役かうんじゃないかといつも思う。知識なんてくだらない、と言われがちだけど、知識はじゅうぶん面白いし、面白さは人を育むものだと思う。

そのほか、日本における畑作の起源と発展、渡来人の果たした役割などいずれも興味深く、読んでいると、人間の叡智とバイタリティ、そして一歩ずつの歩みを感じて明るい気持ちになります。