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『街道をゆく 11 肥前の諸街道』

歴史

 

街道をゆく (11) (朝日文庫)

街道をゆく (11) (朝日文庫)

 

 福岡・博多に生まれ育った人間にはなじみ深い場所から始まる一冊。30数年前、司馬遼太郎福岡空港に降り立ちタクシーを拾って国道202を西へ向かう。その途中、通りこそしなかったが、箱崎を思い、元寇のときにそのあたりに元軍が充満したことを想像する。当時、浜から見ることのできた筥崎宮の楼門も焼けたのだという。

今宿で右折して糸島半島に入り、「横浜、浜崎という小字を通過してやがて今津という字に達する」。彼のめあては蒙古塚である。実際、それは「蒙古塚と言い伝えられている」だけで、発掘成果があるわけではないらしい。

今津の防塁のほうは、虹ノ松原の中にはっきり残っている。

松原が、海に向かって登り勾配になっている理由がやがてわかった。元寇のころ、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士たちの築いた防塁があったからであろう。

防塁は、当時、石築地とよばれた。ぜんたいに2メートルくらいの高さだったが、その後、土砂にうずもれ、標高4,5メートルの丘状をなすようになり、やがていつのほどかその丘に松原ができ、砂の底の石築地は、数世紀以上も前にひとびとの記憶から消滅したのである。

丘の上へ登りつめると、そこに地中の防塁が、200メートルばかりの長さで、掘ってあらわにされていた。「掘れば、この松原のどこにでもあります。ここを掘ったのは昭和42年です」と池氏は言った。


国道202、虹ノ松原。福岡のドライブコースである。そこに防塁があったことは現代の福岡人もぼんやり知っていることだけれど、「砂中に埋まっていただけに風化されず、どの石もいま山から切り出してきたように真新しく、その構造も、じつによくわかる。」というくらいのしっかりしたものが、「どこを掘っても出てくる」ほどに「埋まっている」ことを知る人は少ないのでは?

一次元寇でこの浜に元軍が大挙して上陸したため、とりわけ入念に築かれていて、基部には岩といっていいほどの大石を用い、上になるほど石は小さくなる。上のほうは、労役にかりだされた女子どもがうけもったのであろう。築かれたのは第一次元寇の翌々年、建治2年(1276)年である。

見たい!!

ちなみに、ここでは割愛しますが、本文中には「虹ノ松原」の地名の由来の一説も書いてあります。すごく意外です。

海岸沿いをゆくと糸島半島から唐津湾を経て唐津呼子に至る。『魏志』では末盧国、『古事記』では末羅国といわれた地域。時代を経て「松浦」の字をあてられた。末羅の「羅」とは国を指す言葉で、古代朝鮮の南端には、加羅、阿羅、多羅、草羅などといった小国家群があった。済州島の古代の呼び名は「耽羅」である。

それら「羅」のむれに対し、玄界灘をへだてて、肥前沿岸に末羅国があったことを思うと、唐津湾はその時代ではよほど重要な土地だったにちがいない。

 古代朝鮮のさまざまな「羅=国々」の「末」が「末羅」=松浦=唐津だったわけですね。古代、玄界灘のあちらとこちらでは、今よりよほど行き来がされていたという。ロマンだわー。

その後も司馬の一行は、呼子、平戸、佐世保と海岸沿いをひたすらゆく。その土地土地のすべてが、世界史とつながっているさまを司馬は解説してゆく。旅の終着地は長崎。言わずと知れた異国情緒の街だが、戦国期、長崎が錨地として「発見」されるまでに、ポルトガルは平戸、横瀬、福田と根拠とする港を転々とした。そして、ついに長崎に落ち着いたのだという。

ポルトガル。と今なにげなく書いたが、考えてみれば、現在、長崎で異国情緒といえば「オランダ」なわけで、実際、司馬も

「いまの長崎を歩いていても、南蛮時代の遺跡は何ひとつなく、結局、ホテルで寝ころんで当時のことを空想しているほかない。強いて言えば、ポルトガル人たちを導き入れた長崎湾の水だけが、当時と変わることがない唯一のものである」

 と書く。

水だけが同じとはいかにも作家らしいフレーズだけれど、種子島に鉄砲をもたらしたのも、キリスト教を広めに来たフランシスコ・ザビエルポルトガル人であったのに、江戸期、鎖国の唯一の例外として貿易の続いたのは「オランダ」。この不思議について深く考えたことある人いる?!

日本が戦国期のころの、ポルトガル。オランダ。イギリス。それらの国々がどういう状況にあったのか。なぜ、家康はポルトガルを締め出し、オランダの通交は許したのか。
元(モンゴル)についても、私の知識はほぼ「元寇襲来の元」としてであって、それがどのような国であったのか、ほぼ無知。

知らないことばかりだな、と思う。でも、知らなかったから、面白くて仕方ないってな具合に読めるわけで、

草原育ちのフビライが、財政学に通暁していたわけではない。

内政家としてのフビライの一代は、正貨である銀の準備を保つという困難さとたたかいつづけた一代であるといっていい。

この地上で、オランダ人ほどけなげな民族はないかもしれない。

イエズス会について)この会の組織感覚は軍隊的で、布教という概念は戦争という概念に似たものだとおもっていた。

家康が、同時代のアジアの他の主権者たちと、もしちがっていたとすれば、この点であったのではないか。万里の波濤を乗り越えてきたという人間たちに対し、そのことについて労わりと尊敬をもつというのは、労働や冒険に極めて鈍感になっているアジアの他の儒教国や仏教国の貴族、大官においては期待しがたいことであった。


等々、この小説家独特の語り口に引きこまれっぱなしだった。