『天皇の料理番』 終わりました!

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はあ・・・終わってしまいましたねぇ・・・(←篤蔵の口調で読んでね)

淋しさや虚脱感も拭えませんが充実感と余韻を噛みしめながら書いていきたいと思います。

とにかく、よく練られ構築された脚本だったなあと。ロジックと情とが見事に並び立っていて、唸りました。森下さんって「JIN」では多分に情に傾いた作家だと思っていたので「ごちそうさん」のロジカルな脚本に驚き、今回はロジカルかつエモーショナル・・・ちょっと無敵の域に入ってきましたね。原作がそもそもこれほどロジカルなのか、そこがわからないので今気になってるんですけど。今から買おうかな。

歴史を語ることが主眼ではないドラマですが、「物語の背景」として描写される歴史的状況がうまいんですよね。満州国皇帝溥儀の来日を入れてくるところとか、いかにも宮中が舞台のドラマといった感じでユニークでした。まあ原作にもあるエピソードなのでしょうが・・・アヒルの入った壺を嗅いで「ウッ」となる佐藤健の演技がうまくてうまくて、思わすリピート(笑)。

満州国の毒見役たちによって、料理は原型をとどめないまでに、しっちゃかめっちゃかにされてしまう。「真心」の伝わらない不気味さ、歯がゆさ。けれどそれについて、「彼らは占領→満州建国の流れについて、不信を持っていますから」と説明するのが、このドラマのまっとうな歴史感覚。真心を込めることで真心が返ってくる、その裏返しの関係が、国と国との間で起こる「イヤな時代」に入ってしまったのです。

「闇では絶対に買うな」「なるべく国民と同じものを食べる」「粟や稗を混ぜたごはん」・・・どれも昭和天皇の実際のエピソードを、セリフやちょっとした場面で印象深く伝えてきますね。陸軍の豊かな食糧庫に足を踏み入れた瞬間、篤蔵が不穏な表情に変化するのが見ものでした。お上も耐え忍んでいるのに、前線の兵士や自分の息子たちはろくなものを食べていないのに、と激昂する篤蔵を、辰吉がなだめます。「うちだってそうだ!」この一言で、アラ辰吉も家庭を持っているんだねとわからせる巧さよ。そして辰吉の言う「勝つまでだ」の一言が、現代から見るとつらいですね。国じゅうが報われることのない辛抱をしていたのです。

やがて終戦。玉音放送を聞く列からひとり離れた篤蔵が、調理場で「晩には何をお出しできるかのう」と独りごちたのは、朝ドラ『カーネーション』での終戦場面「お昼にしよけ」へのオマージュだと勝手に受け取っています。このドラマには、許す!カーネーションへのオマージュを(何様)。茄子を洗う流しの頭上に、太い注連縄の巻かれた神棚が飾られているのがなんだか象徴的でした。

焼け跡から何やかんや拾い出しては売っぱらっているらしい新太郎。「それ、泥棒っていうんですよ」「どうせアメ公が来たら金目のものは全部とられちゃうんだから」このやりとりにも、終戦直後の社会の秩序というものがガラガラポンになった、世の中の混乱ぶりが表れています。

「占領軍が来たら男は奴隷に、女はなぶり者になるって話じゃないか」なぶり者、という語彙が的確。「なぶり者の心配はないんじゃない」という新太郎のセリフはそれだけ聞くとなにげに侮辱発言でもありますが、この2人、ずいぶん前からたぶん男女の関係があったようなんですね、今回の冒頭、「お上の御膳に糸事件」をバンザイ軒で篤蔵が語る場面でそういう“匂わせ”があったような。「なぶり者の心配はない」は互いの肌になじんだ男女の戯れ言なのではないでしょうか・・・ってそこにこだわる必要ないんですが 笑 細かいなあと思ったので。それにしても、この時代の人たちは、関東大震災で焼かれ、息子や夫を兵隊にとられ、そして空襲で焼かれたんだなあ・・・と。

ここで宇佐美が皇居を「宮城」というのも時代感覚あふれる語彙で良かったです。「木っ端役人」というのも今ではなかなか聞かない語彙になりましたね。「天皇の料理番というのは言われるままに飯を炊くだけか。俺にもできそうだな」痛烈な皮肉ですが、裏を返せば「俺にはできないことができるはずだろ、おまえには」ですよね。なんというすばらしい上司なのでしょう。



ここから「天皇の責任問題」という、現在でもアンタッチャブルな問題に、民放のエンターテイメントドラマ枠がぐいぐい突っ込んでいくわけです。収拾つくのかどうかさすがにびびりました。

日本は属国になったのだ、戦争責任者は軍事裁判で裁かれる。敗戦の現実を知らされて「ほうなんですか・・・」とうつむいた篤蔵に雷撃が走ります。「お上は別ですよね?」 ここで、「戦争やったのは軍部じゃないですか!」だけじゃなく、「和歌を詠んで開戦に反対したと聞きます」という一言を入れているのに、また唸ります(ご存じの方も多いでしょうが、これ史実ですのでね)。こういう、小さな一言が積み重なって効いてくるんだよね。おおっぴらに喋らせたり動かしたりできない昭和天皇についての表現だから、特に。

宮城の屋上でGHQを歓迎する篤蔵。大きな旗を振りながら走る動作が、「このときもう還暦ぐらいだよね?」という篤蔵の年齢には不適当すぎる俊敏さでしたが(笑)、これはこれでいいのです。最後にアヒルの真似をする場面でも思ったのですが、これせいぜい30代後半にしか見えない男たちだからまだ見られるのであって、実際、60過ぎたおっさんたちがやる映像だったら悲惨さ倍増。終戦前後の老けメイクの程度はこんなもんでよかったと思ってます。本来、宇佐美なんて若くて80代、90才に届いていても不思議じゃないもんね。そこはまあ、ドラマなので。

篤蔵がGHQあてのサンドイッチに手紙を忍ばせたのは実際のエピソードっぽかったけど、「日本人形が欲しい」ぐらいならともかく(ここで新太郎の焼け跡漁りが伏線になっていたのが面白かった(笑))トイレ掃除とか、靴磨きとか、ホントにそんなことまでさせられたんでしょうか? 

アメリカ将校に天皇のことを聞かれた篤蔵、「キリストだってただの人間やったって聞いてますけど」って切り返しはなかなかうまかったですね。篤蔵の英語が、フランス語ほど上手でないのがまたリアリティを感じさせていいですね。我慢できず応戦してしまった篤蔵に先んじて土下座する辰吉。

辰吉については「手紙を荒木さんに渡したの・・・」がなし崩しで解決されて本当に良かったと思いました。凡百の脚本なら、辰吉が空襲で亡くなる寸前か何かに告白させて主人公が涙するようなところです。篤蔵と辰吉は、長年、変わらない友情を築いてきた。篤蔵にはとっくにどうでもいいことで、辰吉の心の中で“時間ぐすり”がはたらくいたのは必然でしたよね。

GHQからの苦情の電話を受けて調理場に怒鳴り込んでくる大膳長。篠田三郎の激怒ぶりが、もともとはスマートで沈着な官僚ぶりを演じていただけに、「篤蔵ってば、とんでもないことやらかしてる」と視聴者に実感させる。

ここから、篤蔵の独演になるわけですけど、その端緒「いざとなったらGHQの前で腹かっさばいて詫びてやるわぁー!」の啖呵がすばらしかったですね(笑)。ほんと、篤蔵ってこーゆー奴だよ・・・と苦笑しつつ感動して見てた(笑)。

ここでの主旨は大きく2つあって、ひとつは「周りの人々の支えで夢が叶ったんだから、夢を叶えた者には叶え続ける責任がある」。もうひとつは「自分は天皇を全力で守りたい」。この両者をつなぎ、かつ「戦争責任の有無を問わず天皇を守る」という、一歩間違ったらイデオロギー問題になる主張を視聴者にスムースに受け容れさせた脚本のロジックの卓抜、そして役者の魂の入った演技に平伏するしかないです。

夢を叶えられなかった者、志半ばで逝ってしまった者たちの無念さや切なる願いを託されているという自覚、だから夢を叶えられた者は幸運や華やかさに甘んじるのではなく、その分、苦闘もしなければならない。つまり夢を叶えた者・叶えられなかった者、どちらもしんどいし、けれど両者は共に在り、つながった存在なのだと。「夢」や「励めよ」を通じて、作り手は、万人に対して斯くも厳しくも暖かい目線を示しました。

そして天皇について「畏れ多くも、我が子みたいな気がして」なんてイメージ! 前代未聞だと思いますが、これは原作にあるんでしょうかね。これが、「なるほどなあ」と思わされるんですよね。ごはんを作って、返ってきた皿を見て、好き嫌いとか、体調が悪いのかなとか調理がまずかったのかなとかいろいろと考えるって、まさに家族の弁当を作って送り出すお母さんそのものですよね。

「我が子のようで」と言った瞬間、実の我が子を(すべて)失い、どうしてもGHQをもてなす気になれず退職しようとした黒川が篤蔵を見ます。彼もまた、長年、天皇の料理を作り続けてきた。子どもを失った黒川の中で、仕事への誇りと子どもへの思いが「天皇」という姿に投影されていく様子がありありと伝わる、この黒川の描写が「天皇を守りたい」ロジックの成功にどれだけ貢献していることか!

脚本は天皇崇拝を盲目的に崇めることは決してしません。軍事裁判の話になり、篤蔵に「お上に罪があるっていうんですか?!あんたの意見を聞いてるんです!」と詰め寄られた大膳長は、それを否定することができず黙ります。のちにパーティで「天皇のためなら何でもするんですか?」と聞かれた宇佐美は「そうかもしれません・・・“良くも悪くも”」と留保のついた答え方をしています。

また、身を削って敗戦後の天皇に尽くそうとする篤蔵を、お梅や新太郎は止めました。「上のことは上で決まるんだから」「天皇の戦争責任を叫んでる奴がいたよ」「あんたの知ってる天皇は、ほんの一部でしかないだろう?」 すべて一理ある発言です。ただ、やはり長年、料理人の仕事をしている辰吉だけがわかるんですよね、「メシ作ってるからかな」。

崇め奉るのではなく、「我が子のようだから」守りたいと思う。そこに「天皇の料理番」という仕事の特殊性と、大事な人のために食事を作るという普遍性とをかけあわせてきたわけです。なるほどこれは、「料理番だから」成立する話なんですね。

そして親が我が子を守ろうとするとき、理屈はなく、カッコよさもありません。宇佐美は「ろくでなしと言われてきた料理人が国を守ったら、さぞ胸がすくだろうに」と言いましたが、彼が目にしたのは、怒りを押し殺してGHQに屈し、池の中で鴨の真似をするいい年をした料理人の姿でした。胸がすくどころか、屈辱的な姿です。

先週の感想の最後に、

「天皇の」料理番であることが、篤蔵の人生の矜持そのものとして描かれる最終回でしょうか

と書きました。最終回には最高のカタルシスが待っていると思っていました。けれどGHQとの最後の対峙は鴨のシーンで、それは甚だ物悲しいものでした。白洲次郎がドラマでの見せ場で、GHQに対して「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではありません!」と敢然と言い放つのとはエラい違いです

でも親が子どもを守ろうとする姿だと思えばすごい納得。それに、GHQを敢然と打ち負かしちゃって、昨今の思考停止な風潮「やっぱり日本人すごい!」「日本国すばらしい!」「天皇陛下ばんざい!」に拍車がかかっちゃったらすごいイヤだった。「天皇陛下ばんざい!」の異常さ・おそろしさについてキッチリ言及してたもんね。ほんと知性と良識ある脚本です。

戦争に負けるって、本質的にむごくて哀れなものです。それでも、生き残ったすべての親は、子どもを守り、食べさせていくために、必死になって生きていったのですよね。あそこを(主人公が)カッコいいシーンにしなかったのが、森下さんの脚本の真骨頂だと思いました。あそこをかっこよく描かなくても、主人公の魅力は何ら損なわれません。これまでの積み重ねがあるから。むしろ、あそこで主人公を無様に描ける自信たるや。


鴨の真似をする篤蔵たちを見て宇佐美が「天皇は味噌のようなもの」だという。天皇の料理番である篤蔵たちにとって「子ども」なら、市井の人間(料理人)である宇佐美にとっては「味噌」。はぁー、うまいこと言うよね(感嘆)。辰吉や新太郎にとっては、天皇がどーとかじゃなく、「篤蔵がやるなら俺らもやろう」なんでしょう。

結果的にGHQは天皇の戦争責任を問わず、天皇制を保持する形で統治を進めていった。宇佐美の「味噌」が効いて、その理由も腑に落ちるドラマになっていました。

昭和47年退職の日、天皇が老いた篤蔵に言葉を下される。名誉ある称号やメダルを幾つも持ち、著書もある篤蔵は、戦後長い時間が経ってもなお、天皇の言葉を至高のものとして涙します。「体を大切に。あなたが私の身をいたわってくれたように」 篤蔵の真心は伝わっていたのです。これも確か史実の言葉ですよね。うちにある本の何かで読んだことのあるエピソードなんだけど、どの本なのか、今探しきれなくてモヤモヤしてるっ! そしてここで、昭和天皇が梶原善だって気づいて「その手があったか!」と思いました。なんというニッチな、けれど的を射たキャスティング!!

天皇が責任を問われないことになったとき、篤蔵は太陽に向かって上着をぶんぶん振って、「ありがとうございます!!」と言った。これはGHQじゃなくて、天の兄やんらに感謝してたんだよね。そして「今日も明日も明後日も、料理番です!」と言った。自分の職が守られたことではなく、「大切な我が子のような存在の人の健康と命を、これからも守り続けられること」への喜びだよね。そして、周りの人に支えられた夢を叶え続けられることへの・・・。




正直、最終回は90分あっても駆け足だった(初回は2時間だったのに何でよ!!て思っちゃうよねシロート的には)。というか、全体的に駆け足だった。というか、もっとゆっくり見たかった。 「天皇の料理番」としての「ふつうの日々」がいろいろ見たかったなーと思う。篤蔵が言葉で説明した、「返ってきたお皿を見て・・・」みたいな部分を、いろいろ。戦時中も、戦後も。でも、せいぜい10話か、がんばっても11話で終わることがほとんどの1クールのドラマを12話までやってくれたし、撮影自体は半年以上もしたらしいし、制作側もギリギリのところでがんばってくれたのだと思います。

とにかく今は、篤蔵とサヨナラするのが淋しい気分だな。「料理番としての日常」を見たかったのは、篤蔵の日常をもっともっと見たかったという意味でもある。これまで佐藤健って、理論よりは感性で演じる役者だと認識していて、大河好きとしては『龍馬伝』の以蔵はもちろんすべて見てとても良かったと思っているけれど、以蔵は若い感性や彼の身体能力で演じられるだろうと理解できても、篤蔵をここまで見事に演じたことは未だに不思議な気持ちがある。

篤蔵は確かに勘や勢いの人だけれど、それだけでは演じられない「心底からの情」という要素があって、それを、舞台系でもなく憑依あるいは技巧系でもない役者がこんなに迷いなくじゅうぶんに発露できるのはいったいどういうわけなのでしょうか。わからない。けれどその不思議さが彼の魅力のひとつなのでしょう。


3話までの感想で

佐藤健くんは、たとえば窪田くんとか菅田くんみたいな「演技派」のイメージがある若手役者とはちょっと違うところにいる気がしますが、もしかしたら、同世代でもいちばん大きな「器」をもった俳優の一人かもしれない。どこか底知れないものを感じます。


と書いた思いは、全話を見終えてさらに強くなっています。 「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」という坂本龍馬の西郷隆盛評(だったよね?)を思い出すほどです(笑)。

時代劇には平成の若者とは一線を画した野太さやギラギラした演技が必要で(でも決してヤンキー的ではなく)、時代劇ファンとしては、こんなところに逸材が!!と瞠目させられました。だって「るろうに」のように特殊な要素があるものならともかく、一見、時代劇とは対極のような華奢さ繊細さですものね。

しかし彼は明治の男の一代記を堂々と演じきりました。佐藤健に癇癪持ちのイメージとか微塵もないけど、最終回では篤蔵が眉をひそめるたびに「くる、癇癪くる?!」とドキドキワクワクしながら見てましたよ。

すべての助演役者がすばらしい演技をし(詳しく書きそこねてますが、桐谷健太や柄本祐はこれからもバイプレーヤーとして活躍するでしょうね~)、若手の中でも鈴木亮平や黒木華の印象はことさら強いですが、その2人とて、全話を通して見ると決して出番が多かったわけじゃないんですよね。本当に出ずっぱり、矢面にデーンと立たされた主演でしたが、本当に魅力的な篤蔵でした。これはどんなにか自信と実績になるでしょうか。もちろん時代劇のみに収まる彼ではないでしょうが、今度はどんな時代のどんな人物を演じてくれるのか、将来を期待せずにはいられません。

そして森下さんの脚本ね。朝ドラからさほど間を空けずしてこれだけのものを書けるって、すごい作家性&馬力です。次作はNHKのスペシャルドラマで阿部サダヲの小林一三ですよね。それももちろん楽しみですが、次の長編は果たして、どの局の、どの枠で書くのでしょうか? 

視聴率17.1%かー。JINを思うと全然足りない気がするな。でも関係者のみなさまにはすばらしいキャリアが加わったことになりますよね。おつかれさまでした。これ最後まで読んだ方も、まことにおつかれさまでした(笑)。


●Twitterから転載