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『天皇の料理番』 11話

ドラマ

悲しすぎて、見終わって一両日は何も書けない、書きたくない気分だったんだけど、落ち着いてくると、やっぱり振り返って言葉にしたくなる魅力的なドラマ。

開始早々、新太郎が帰国、再登場。再会の場面、これ絶対一言目に「おまえさああああん!」がくるな、ってワクワクしましたよね(笑)。対する篤蔵は、「新太郎さん!」と名前を呼ぶでも、「帰ってきたんですかー!」みたく喜色を浮かべるでもなく、厳しい顔で役人さんに向かい「申し訳ございません!」と深々頭を下げる。新太郎はかつての新太郎のままだけど、篤蔵はそうじゃないのだと如実に感じさせます。篤蔵は責任ある場所で責任ある仕事をする「立派な大人」になっているのです。

それは不届きなビジネスチャンスを狙って武田鉄矢に怒られる新太郎のことを、「心じゃなくて、頭がないんです」と篤蔵が評する場面にも表れています。「心じゃなくて頭がないんです」、つまり「真心はあるんですよ」というフォローでもあるけれども、人様のことを「頭がない」だなんて評しちゃうんですよ、あの篤蔵が!! 自分が「頭がある」人間じゃなかったら言えないセリフです。

篤蔵はこんなにも成長した。それは喜ばしいこと、すばらしいことに違いないんだけど、まるで立派な男になったのと引き換えのように味わわなければならないのが今回の悲しみですね。

 

「この世に生まれて、職をなさず、家もなさず、何ひとつなさず死んでいく」という兄やん・周太郎の嘆きも本当に悲しいものだったけれど、俊子の病には、それを看護する篤蔵には、別の悲しみがあります。

“己が身ひとつ”で病と闘った周太郎、郷里の両親のもとにいる兄を遠くから心配していた篤蔵。今回はそうではなくて、篤蔵と俊子は支え合って生活を回してきた夫婦で、子どもたちはまだ小さくて、篤蔵には責任ある仕事もあって、そんな「普段の生活そのもの」が病によって侵されていくのです。

ただおろおろと嘆き悲しんでいればよいのではない。「家庭を持つ立派な大人の男」が直面する妻の闘病では、家族の食事や坊やの子守り、仕事の段取り、それらがうまく回っていくように絶えず気を配らなければならない。病があっても生活は続くのです。

 

悲しみを強調するのではなく抑えた筆致で「病ある生活」を描いていたのが印象的でした。それでも見ながらグスグス泣いてたけどね。いや、抑制された表現だから悲しみがいっそうしみるのよね。

窓の外の木々や花々で季節をあらわしながら、その一年は描かれます。紫陽花もひまわりもことさら美しく彩り豊かに映し出されていたのは、病床の生活とのコントラストにもなっていたけれど、それだけではないように思います。死に向かうものであることは家族全員が感じながらも、だからこそ、家族にとってはかけがえのない大切な思い出になる一年でもあったのです。篤蔵と俊子にとっては、初めて訪れた蜜月でもあったのだと。

倒れた自分に代わって台所に立つ夫の背中を見つめる俊子のうれしそうな表情。佐藤健がこの役をやるにあたって料理の猛修行をしたのが様々な場面で効いてくるね。ただ塩をひとつまみ入れるとか、フライパンを振るうとかの作業も、ひとつひとつすべてがプロの料理人らしくて説得力がすごい。今回前半のほうでおにぎり握ってる姿もすごくよかった。

「人間は食べられなくなったら弱っていくからな」という宇佐美の言葉は病人との日々をシンボライズしたもの。篤蔵は俊子のためにせっせと料理を作る。栄養を考え、季節感を大事にし、食欲をそそる見た目を追求し・・・。はじめは篤蔵の説明が終わるのを待てずに食べていた俊子が、やがてすぐに匙を置くようになる。献立からは固い素材が消え、色合いが薄くなっていく。自分で箸と椀をもつ力がなくなり、篤蔵が食べさせるようになる。

窓の外のかたつむり。ゆっくりとしか歩けないかたつむりも、床から見ているとやがてフレームアウトしていく。篤蔵は窓を開け、かたつむりを窓のフレームの中へ戻す。それは動ける人間にとって、いとも簡単な作業。それでもまた、かたつむりはゆっくりと歩いて行ってしまう。永遠につなぎとめることはできない。かたつむりは、そう、このドラマでの俊子の象徴ですよね。

少し調子の良い日、食欲の薄い日、いろいろな日がありながら、季節と共に、少しずつ、俊子は弱っていく。心を込めた料理の数々。それでも俊子が弱っていくのをどうすることもできない。その焦燥、絶望感。看護する側である篤蔵が時折、感情をコントロールできなくなる描写が絶妙だった。はじめのころ、宇佐美の料理のために特別な食器を出していて倒れたあとの、不機嫌な様子で病床の食卓を整える姿。痰を吸い出してやったあとの「いいかげん治ってくれんかのう」。

下ネタを入れることをためらわない森下女史が、このドラマで、夫婦の色っぽい(色っぽくも見える)身体的絡みを初めて描いたのが「痰を吸い出す」シーン。徹底してるなと思う。森下さんの描く「性」はいつも「生」と直結している。

苦しむ病人の痰を口写しで吸い出す。汚くもあり危険でもある行為を、恋といういっときの激情によってではなく、一生連れ添うべき配偶者のために行う。それが森下さんの書く夫婦の性であり、だからそのあとに続くのが「いいかげん治ってくれんかのう」なのはすごく納得がいく。あの一言に、詮なきこととは知りつつ相手を責めたくなってしまう気持ち・・・積もった疲労や、絶望や、切ない祈りや、様々なものが詰まっていた。様々なものが詰まっていることを感じさせる芝居だった。夫から妻へだからこそいえる「軽口」のていをとりながら、どうしようもなく震えていて・・・。すぐに気を取り直して年越しそばの話をしたあと、廊下で頭を抱えてうずくまる姿に胸がつぶれそうになる。

俊子のほうは、今回冒頭のナレーション「私は幸せでした」の言葉通りの闘病生活。病床でぼんやりと虚ろな目はするものの、取り乱すことは一切しない。体がままならなくなる不安、若くして死へ向かう恐怖、まだ小さい子どもたちを残してゆかねばならない悔い。一切、何も見せなかった。ただ小さく「子どもたちに心配をかけてしまった」「私、迷惑しかかけてないですね」と家族に詫びただけ。彼女は自分の運命を少しも呪わない。本当に、心から「自分は幸せだった」と思っていた。そういう人です。俊子という人は。

 

闘病する夫婦と、周囲の人々。宮前さんも、かつて篤蔵に白芋の切り方でケチつけられて苦虫をかみつぶしていたあの人(名前がわからん)も、篤蔵を気遣います。宮前さんは今回、引退を申し出ました。「耳が遠くなって声が大きくなってしまった」とは、また見事な花道を用意してやる脚本ですね。宮中の料理人・宮前の美学を最後まで貫かせてやったのです。皇太子(昭和天皇)の婚礼の晩餐のあと、好々爺のような宮前さんの笑顔に視聴者もあたたかい気持ちになりました。

対照的に、たびたび秋山家を訪れて台所をしてくれる宇佐美の引退の経緯は一切描かないのがクールですよね。宇佐美には宇佐美で、年齢と共に何かきっと、自らが課す最高のパフォーマンスができなくなったのでしょう。けれど宇佐美の場合、「調理場を離れたから」篤蔵の娘のたった一言の説明が、なんだかふさわしく感じます。

心配はしても自分の店は離れないお梅も、篤蔵の目を見ずに淡々とした口調で心配する辰吉も、それぞれ彼ららしい。そして新太郎、勤めを休んでずっと俊子を看ることにする、と言う篤蔵に「おいらじゃだめかい? ・・・だめだよなあ」のあと、「でも、助かってます、すごく」と言われての反応がすごくぐっときた。パリでも、日本でも絵はいっこうに売れず、誰にも必要とされずにここまできた新太郎が、「立派な大人の男」であり、且つ、今は苦境にある篤蔵に「助かっている」と言われたのです。

人の役に立っていることを実感した新太郎はうれしかったと思います。病気という絶望の中にいる人間が、他の誰かを救うこともあるのです。このドラマはそういうことも描けるのです。

「毎年同じように」年が明けたこと、その重みを噛みしめる家族。そしてジュテーム。


「食う、いうことや。明日もあさっても、私はあなたより長生きしますって、そういうことや。」 

生きることは食べること。食べることは殺すこと、奪うこと。それを自覚しながら生きること。『ごちそうさん』で森下佳子が描いたのはそういう世界で、彼女はあの作品で食と生とを描ききったと思っていたけれど、終わりじゃなかった。生きることは食べること、食べることは愛すること。森下さん、このドラマでは、生きること、食べることを媒介に「愛」を描いてきたのですね・・・。

「あなたより長生きします」それは俊子が誓った言葉、俊子が篤蔵に捧げた愛情。その言葉が真実であり続けるために、篤蔵は精魂込めた料理を俊子に作り続ける。明日も明後日も俊子を生かすために・・・。それが、篤蔵が俊子に捧げる愛。だから今、俊子が夫の愛に応えるためにできるのは、明日も明後日もがんばって食べること。作ること、食べること、それがふたりの愛の形。

でももしかしたら、あの昔の手紙に「ジュテーム」と書いてあったことで、「私はあなたより長生きします」と、俊子よりも篤蔵のほうが先に誓っていたことになったのかもしれない、そういう裏解釈もありなのかもしれないなって思う。だとしたら、約束を果たせずに篤蔵より先に死んでいく俊子を救う一言にもなります。自分のほうも、最初からおまえより長く生きるつもりでいたんだよ、と。まああくまで裏解釈ですが、ちょぴっとそういう気持でも見てました。

「俊子、帰ったぞ!」と玄関先で声を張り上げていた篤蔵が、彼女の死後は部屋の中に上がるまで一言もない。細やかな描写ですね。でもそこでは娘が繕いものをしている。

故人が遺された者たちの中で生きていること。特に、「奥さんの真心は子どもたちの中でずっと生き続ける」のだから、「篤蔵さんより長生きします」は本質的に果たされることになるのだというロジックは、創作として珍しいものではありませんが、ここに至るまでの流れがすばらしすぎたので、素直に感動できるのでした。

佐藤健黒木華が「ジュテーム」を語り合う姿は、21世紀のドラマ史に残したい名場面。「食う、いうことや。明日もあさっても、私はあなたより長生きしますって、そういうことや。」この、いささか作為の強いセリフを、陳腐にならずに、明治の男らしく表現してくれた佐藤健という役者に感謝したい気持ち。彼の大きな瞳は実に豊かな芝居をしますね。そして黒木華の細い目もまた。。。

大宮こと貞明皇后の気遣いの描写も良かったですね。彼女もまた、大正天皇という夫を亡くし、遺されたまだ若い子どもたちの独り親であることを想起させました。

主人公周辺の大いなる悲しみを描きながら、それと、世の中の多くの悲しみとを並行させるのがこのドラマの良心だと思います。関東大震災で家族を失った人々や、家族のいない新太郎のような者の孤独や、天皇家という高貴な人々の悲しみ。それらと、篤蔵たちの悲しみとは常にリンクされています。世の中には数多くの悲しみがあり、そのひとつひとつが、当人たちにとっては唯一無二の悲しみだけれども、「みな悲しみを抱えながら生きている」と思うことで「自分も生きていこう」ともまた、思えるのが、人間の心の営みですよね。

来週最終回、GHQの姿が予告にありましたが、そのころの篤蔵は還暦前後ですかね? 「天皇の」料理番であることが、篤蔵の人生の矜持そのものとして描かれる最終回でしょうか。。。すばらしいドラマがもうすぐ終わる、というときにいつも感じる淋しさとドキドキが、今ここにあります。