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『天皇の料理番』 第9話

華族会館には華族会館の、バンザイ軒にはバンザイ軒の、フランスのホテルには、そして宮中には・・・それぞれの場所にそれぞれの苦労があり、それに対峙する主人公の成長度も違って、そのときどきにふさわしい方法で乗り越えていく、乗り越えるたびにまた成長していく・・・。


そんな、ドラマの脚本として当たり前のことがきっちり為されていることが、たまらなく有難い。そんな季節です(笑)。つまらない大河を見せられすぎて、ドラマに対するハードルが下がりすぎているこの現象に名前をつけたい。。。


もちろんこのドラマは当たり前でなく優れたドラマです。どこの場所でも初め異端者で、そこから道を切り拓いていくパイオニアである篤蔵と同時に、既存の価値観の中で働く「凡人たち」にも心を寄せて、時に残酷な現実を描きながらも常にあたたかな視線があります。


バンザイ軒のおやっさんは恐らく腹上死したのであろうとTLも簡単に意見の一致をみていたが(笑)このあたり、脚本の森下さんは下ネタの入れ方もこなれたもんですね(笑)。『ごちそうさん』での「どったんばったん」や「オットセイカレー」「諸岡くんを複製したい」も懐かしく思い出され、それらが視聴者におしなべて好意的に受け止められたことから(笑)、今作ものびのびと腕をふるっておられることが想像できます(笑)。


ここで、「おやっさんは誰の腹の上で死んだのか問題」をハッキリ語らなかったのが気になったのですが、TLでもそこはスルーされていたような。みなさんどうですか? 私はなんとなく、別の女じゃないかと思うんですけどね。


お梅はおやっさんの生前も他の男たちと情を通じており、おやっさんは「吉原の巨匠」と呼ばれていて、お互いにそれを承知していたわけですが、おやっさんの最期が別の女と一緒だったのは、お梅にとって、悲しみではなく救い、免罪符になったのではないでしょうか? それはいかにも「おやっさんらしい」お梅に対する優しさのように思えます。もしもおやっさんの最期の相手が自分だったらば、お梅はもう篤蔵に手を出したりなんかできない心境では?


・・・と、この議論を深めすぎると先に進みませんのでこれぐらいにします(笑) 


 

華族会館の宇佐美、オテル・リッツの“帝王”エスコフィ、そして宮中の大膳頭の福羽。それぞれのキャラクターを見事に書き分けているのもさすがですね。野良姿でかいがいしく作物の世話をする気さくな福羽。けれど、宮中の大膳の本質を理解し、探求心をもち、人脈もあり、部下の冒険を許して責任を負う覚悟も持っている。三者三様ですばらしい上司が篤蔵を育てていくさまは見ていてすがすがしい。


悩む篤蔵に「おまえが採用されたのはオテル・リッツを知っているからだ」と的確なアドバイスをする宇佐美。エスコフィの言葉「料理は音楽だ」を聞いたときの、ぴくりとも顔を動かさないのだけれど、実に複雑な表情に見える演技に唸りました。フランスへの門出を祝い、また宮中の料理番に強烈に推挙した宇佐美だから、篤蔵を認めその成長を喜ぶ気持ちも真実だろうけれど、料理人としての自分の限界や、エスコフィひいては篤蔵に対しても嫉妬のような思いもないわけはないだろうと、想像してしまいます。

「宮中の白芋はまんまるに」というのは史実の秋山徳蔵のエピソードでもことさら有名なものでしょうね。私もこの本で読んだことがありました。


大膳ではジャガイモのことを白芋と呼んでいましたが、その白芋を型で抜くわけではなく、包丁でまん丸に剥くのです。

(中略) 私が得意顔で剥いていたときに、秋山さんがそばにきて、私の剥いた白芋を手に取って、いきなり調理台の上を転がすではありませんか。白芋は見事なカーブを描いて曲がりました。
「こんないびつなものを使えるか!」
そう一言言って、その場を立ち去りました。(中略)先輩に聞いたところ、
「まん丸に剥いた白芋だったら、転がしたらそのまままっすぐに転がるだろう。おまえが剥いたのは曲がったじゃないか。どこかが歪んでいるからだよ」


↑これは、今回のドラマ放送回ではなく、はるか後年、秋山徳蔵が80歳を超えてからの宮中のエピソードとして紹介されていますが、今回、白芋を例にビシッと言う篤蔵、かっこよかったですねー。しきたりや既存の組織を敵に回す覚悟をもち、圧倒的な技術でねじ伏せる。パイオニア篤蔵はある意味、孤高の存在にもなっていくんだなあとしんみりしました。


その強硬姿勢に怖じけづくのではなく、ついてこようとする料理人たちの姿にもまた、料理人としての、しかも「お上の料理人=一等国日本の料理人」としての矜持があることが簡明に描写されていて良かったですね。そんな中、ひとり、副厨司長の宮前だけが焦燥を募らせ、それはやがて「宮中ザリガニ大捜索事件(笑)」につながっていくわけですが、もちろん大礼の晩餐が成功裏に終わったからとはいえ、彼の失策を責めずに「真心」だと言った篤蔵の成長っぷりと、このドラマの筋の通り方に惚れ惚れしたのは私だけではないはずです。


「聞こえるはずもありませんのにね」それは宮前本人にもわかっていたのです。それでも手拭いをかけてしまったのは、しきたりを大事にすることに自分の存在価値を見出していたから。それは守旧的な態度で、それが旧弊となって実際にザリガニを逃がしてしまったのにもかかわらず、篤蔵にとって既に「宮中のしきたり」は「乗り越えられるハードル」になっていたのですよね。だから排除する必要を感じない。


それに、宮前は「陛下のお耳にさわるから」手拭いをかけたように振る舞っていますが、実は、流水音は篤蔵自身も「うるさい」と思って実際に言葉に出していましたよね、宮前は「篤蔵(や皆)がうるさくて気が散るから」手拭いをかけたのかもしれず、彼は陛下への忠誠ではなく同僚たちへの真心を示したのかもしれない。篤蔵はそれを「真心」と言ったのではないかと思います。


それにしてもザリガニのくだりは面白かったですね。軍が川でザリガニを漁る絵も痛快だったし、宮中の台所での捜索。「大勢のひとが床に這いつくばって必死になっているところに、一人、それを知らぬ者が入ってくる絵」って無条件に面白いんですよね。篤蔵の「さぁぁがぁせーーーー!!」もすごく上手でした。大きな演技なんだけどオーバーに見えないって巧いんだよな。


最初に逃亡ザリガニを見つけたのは辰吉で、柄本祐の飄々とした演技もさすが。辰吉は華族会館から職場を変わっていたのですね。代理とはいえ大礼の料理人に加われるぐらいなのだから、彼もまた自分の包丁で勝負してきたのだなあと胸熱。しかしそれだけじゃなく、「華族会館時代の胸のつかえを謝罪しようとする辰吉」と、「もはやそんなこと歯牙にもかかけていない篤蔵」との残酷な壁を一瞬で描くところに森下さんのスタンスがあります。辰吉についてはまだ後日譚あるな、これは。


ザリガニさえ確保できれば、あとは滞りなく進んで行ったわけで、篤蔵が大膳でうまくやるようになる過程も、晩餐のメニューのひとつひとつも、もっと詳しくゆっくり見たかったけれども、実際、滂沱の涙を流している私が(泣泣)。メニューが読み上げられているだけなのに、なのにこの、あふれる感動!!


料理人の精鋭たちをしたがえて腕をふるう篤蔵。各国の来賓を迎え2000人が集う大広間。これ以上ないハレの席と、それにふさわしい豪華な料理。その華々しさと、暗く狭い病床で死を待ちながら、料理の名前を聞いている兄やんとの対比ですよ! 


見たことも聞いたこともない、想像もできないような料理が並ぶ世界。それらの美食どころか、もうどんな食事も味わえないほどに弱っている兄やん。人の世は本当に残酷で、けれど周太郎は誇りを抱いて、光を抱いて死んでいったのだと思う。

 

死の床から這って出て、夜明けの空に輝く朝日を見上げる周太郎。太陽は生命の象徴であり、その輝かしさはそのまま、彼にとっての篤蔵である。けれども、一世一代の大仕事を終えた篤蔵もまた、太陽を見上げて兄やんを思うんだよね。「あなたの誇りになれてましたか」と。もはや起き上がる力もない、死を目前にした周太郎でも、篤蔵にとっては今も、眩しく見上げる存在なのです。

 

会うことも、声を聞くこともかなわずとも、同じ空の下で太陽を見つめて思いを交歓しあう。今ここにいない、ケータイでもSNSでも繋がれない「あなた」を思って励む。現代劇ではもはや成立しないその姿が胸を打つのですよね。

 

鈴木さん、おつかれさまでした。健康そのものの大男に見える彼が死の病に侵されるというそれだけでドラマチックなキャスティング。役作りがんばったのねーって域を超えて、もう映さないであげて・・・と思わず目をそむけたくなるほどの病身の姿でした。死の床での表情の演技には息がつまりました。おそらくこちらも不完全燃焼だったであろう『花子とアン』の直後にこんなドラマに出会えておめでとうございます。

 

そして俊子ね。吉原の大門をくぐっていたのは、苦界に身を落としたからではなく、産婆仕事のためでした・・・って視聴者を手玉に取ったようなオチ。良かったです。流産した彼女が命を取り上げる仕事を選ぶってすごいことで、本当ならばその過程もドラマで見たかったですが、兄やんの命が終わろうとしているときに、俊子は何度でも新しい命を迎える仕事をしていたという対照でもあるし、けれど当時のお産には母子ともに危険がつきもので死が間近な仕事でもあるし・・・という、この、職業選択の妙ですね。


どうあれ、俊子はただただ篤蔵を別世界の人と見上げるだけでなく、「篤蔵のように」と自ら行動を起こして仕事を得たわけで、その俊子のプロフェッショナルな姿に、腐りかけていた篤蔵もまた触発されるわけで、そういった人と人とが相互に影響し合う姿を豊かに描ける森下さんはやはりすばらしい脚本家だと思います。


電報一枚で兄の死を知る篤蔵。「せっかく会えたんやから、俊子はそばにおってくれんか」。この、なんとも地味な告白に泣かされます。このとき篤蔵も俊子もまだ20代のはずですが、人生の酸いも甘いも知って熟した人格、ここまで長い道のりを経て熟した2人の間柄が匂いたつ名セリフではないでしょうか?!


対する俊子の「篤蔵さんより先には死なないから安堵してください」は、いわゆる“逆めぞん一刻”と言いましょうか、さほどオリジナリティのあるものではありませんが、定番だけにスッと入ってくるし、何より、ここでの佐藤健の涙がすごい。


かつては罵詈雑言で俊子に愛想づかしをした。フランソワーズに対しては大人の態度で受け容れた。今、かけがえのない兄を失い、俊子を再び得ようとしている。愛する者を失う悲しみや痛みを知っているから、そばにいてくれることを途方もなくうれしく有難く感じられる。だから涙が噴き出てくるのである。けれど篤蔵はかつてと違い、周りを憚ることなく泣きわめける子どもではない。俊子から体を背けてこらえようとするが、とても我慢できずに、あとからあとから溢れてくる・・・。


苦みを知る男になったんだねえ。そして、時代物ならではの、すばらしい演出だねえ。


その涙に何も声をかけず、背中をさすったりなんかせず、ただ「見られたくない姿だろうから」と、そっと篤蔵に背を向けて、けれど「そばにいる」との言葉通りにその場を離れない俊子もまた、大人の女。そしてこちらも、時代物ならではのすばらしい演出。


最高のカタルシスの回に最大の悲しみをぶつけ、そして新しい希望を描いて、あと何話あるのかな? このドラマはどこまでいくのだろう。