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『花燃ゆ』 第24話 「母になるために」

大河ドラマ

夫を追って三田尻まで来たついでに、七卿のごはんの世話をするとか、京菓子・八橋を妄想で作ってみるとか、いかにもこのドラマらしい卑小さです。それらの創作が面白い展開に結びつくわけでもなく、作劇上の何の必然性も感じられないままにのんべんだらりと流れていってしまうのにも、いいかげん驚きゃしません。驚きゃしませんがね・・・。

歴史に名を残したわけではない女性の物語だから、男たちの激動の生涯に翻弄されつつも、兄を思い夫を思い、その無事を願い平穏な暮らしを祈って、ただ懸命に生きていたはず。そこに共感してほしい。今作の主題は、歴史の表舞台ではないんです。文という女性の一生なんです。

・・・と言われましても、その、家族やら夫婦やらの物語がてんで生ぬるくて(毎週言ってますがね)。

八月十八日の政変から蛤御門の変に至るまでのこの大事な時期に、久坂玄瑞が芸者と寝たかどうかとか正直どうでもいいんですけど(京に行くや、寝まくってるのが当時の志士の通常運転です)、まるで「一夜の過ち」のように重大に取り上げといて、今週、その決着は結局うやむやです。

「まだケンカもしてないのに・・・いつだって何も言わずに言っちゃう人なんだから・・・」だなんて、もっともらしく嘆く主人公ですが、久坂をそういう性格設定にしてるのはドラマの作り手です。性格設定といえば聞こえはいいですけど、見ててまったく面白くないので、「脚本の逃げ」のようにしか見えません

松陰や久坂という幕末の志士のダンマリや奔走に対して、文の基本姿勢は「やきもき」。母に愚痴り、兄に愚痴り、義兄に愚痴り、あまつさえ坂本龍馬にまで愚痴り、時々ふいに意を決したかのように滔々と長広舌を披露します。けれど翌週にはまたやきもきに戻る。

こないだ藩主“そうせい候”に目通りした後、下関で久坂に「もう何も言わなくていいです、私はあなたを待ちません、どうぞ好きに生きてください」と宣言したわけです。藩主の無責任な「若人よ輝け」発言にまんま影響されて、「夢にときめけ、明日にきらめけ!」とか何とか、のたもうてたわけですよ、文ちゃんは。その場面だって別に全然感動的ではなくて、あくびしながら見てたんですよ。この場面がこのドラマに必要な流れならしょうがないな、って思いながら。

でも、翌週か翌々週には、また夫の行動にケチつけて、くよくよくよくよしてるわけじゃないですか。そういう行きつ戻りつは現実なら「人間のリアリティ」かもしれないけれど、これはフィクションなんですよエンターテイメントなんですよ。面白くなかったら意味ねーわ。主人公の魅力に全然つながってない、むしろ不快指数上げてる。まったく、こんなことならあのときの「夢にときめけ、明日にきらめけ!」要らんかったじゃないですか。あの時間の退屈さに耐えた私が浮かばれないじゃないですか。

で、亭主の浮気に怒ってるなら怒ってるでハッキリ対決せんかい!て話ですよ。ったく、つまらん。八月十八日の政変から蛤御門の変に至るまでのこの大事な時期に、久坂家が養子をとるかとらないかとか正直どうでもいいんですよ。そんなことより描いてほしいことは山ほどあるんですよ。それを、「花燃ゆ」では京の政治情勢よりも長州の藩内政治よりも久坂の養子の話が本筋だから、っていうんなら、ちゃんと描きなさいよ。

「養子をとったら久坂の死への決意を受け容れることになる」とかなんとか、ごまかすんじゃねーよと言いたい。松陰が死んだあと、「子どもを産みたい」ってわざわざセリフで言ってたじゃないですか。なぜ、その気持ちがなかったことになってる? 

その若さで、自分で産まなくていいのか? もう2,3年待ったら夫も長州に落ち着いて、子どもを授かるかも、授かりたいと思うのが自然でしょ? 子どもができにくい体質だと思っているんですか? 浮気した夫と寝るのはもうイヤなの? でも子育てはしたいわけ?

そういうところに一言も触れないで、姉の子どもを養子にもらうのもらわないので涙されても、父になる母になるだのと口先でいわれたり手紙で示されても、まったく心に響かないわけですよ。当時の「家」制度的に、家系を存続させることを重視する概念を描いているわけじゃないですよね、このドラマ。そういうの無視して、ひたすら現代的感覚で家族やら恋愛やらを描いてるんだったら、養子だの言う前に、「産みたい」とか「産みたいけど産めない」とか「子どもは欲しいけど夫と寝るのはイヤ」とか、そういう話になるのが普通でしょ? どの選択肢でもいいんですよ、きっちり踏み込んで描いてくれたら。どれも選んでない今の状態は「逃げ」でしょ?

実際、「産みたい」も「産みたいけど産めない」もナイーブな問題です。けれどそこに覚悟をもって何らかの創作を描かずして、何のためのドラマ作品ですか? 何のための跡継ぎ問題ですか? まして、歴史を描くよりも人間ドラマを描きたいって言ってるわけでしょ? 

「マッサン」では、流産するエリー、体質的に産めないエリー、夫婦の苦悩を描きました。「天皇の料理番」では、考え無しに子どもを作って結果的には妻の思いに応えられず手ひどく傷つけてしまう篤蔵、その未熟さとボタンのかけ違いを描きました。どちらもナイーブな問題に対して、勇気をもって自分たちなりの斬り込み方をした。だから全員に受け容れられることはなくても、賛否両論を巻き起こしつつ、視聴者の心に何らかの爪痕を残したのです。

ないでしょ? このドラマには、そういう「覚悟をもった踏み込み」が。ほんと、ここが、近年の大河に共通する宿痾ですよね。莫大な予算を使う伝統枠であるがゆえに、クレームを恐れ、全方位性を狙って、味噌汁の上澄みみたいな味のない脚本に堕している。

養子問題の顛末。寿姉が、子どもの頃の思い出話を突然始めます。先週の辰路の身の上話と同じく、視聴者的には「初耳だよそんなの」な、何の感情移入もできない話です。賑やかな杉家にあって淋しかった子ども時代。そういうのも、ドラマでは全然踏み込んで書かれてません。ただ単に性格の悪いお姉さんでした。で、なんかわかんないけど次男を養子に出すことを認め、文ちゃんは涙ながらに「ありがとうございます」。なんだこれ。

なおかつ、心ならずも次男を手放すことになった妻に向かって、「おまえは大事な家族だ」なんて真正面から告白する夫(義妹といつも気持ち悪い付き合いをしている)。それをセリフで言わせて終わりじゃなくて、ドラマで描いてくださいって話だよ。ただこの場面、その陳腐な告白に対して寿が目を潤ませわずかに微笑むだけで、台詞を発しなかったのはよかった。なんとなく、(脚本にはあったけど)編集で切ったのかなって気もしましたが。

優香は本当に驚くほど好演しています。脚本演出のせいも多分にあるのでしょうが、凛とした姿勢と発声の寿のあとで見ると、しきりに頭をふらふらと動かし、目線を不安げに左右に泳がせ、口元だらしなく話す文の現代調の演技が目に余る感を覚えます。

京で新選組に遭遇する久坂。大丈夫、この大男、剣道だけは得意だから! ・・・って中の人の特性を殺陣で生かす気は、このドラマにはまったくなさそうです。斬り合うことなく、たまたまやってきた高杉がピストルぶっ放して走って逃げるだけ。これまた、ドラマ的必然性は何らない、「ドラマを賑やかす」だけの場面でしかないのに、チャンバラもしない手抜きっぷりが「花燃ゆ」です。これでどうやって視聴率をとるつもりなんだ、と問いたい。

しかし賀来くんの沖田はなかなかいい感じでした。天才剣客少年らしい無邪気さと剣呑さが同居してて。彼はセンスあるのかもしんないですね。来週もどーせ手抜きな池田屋事件でしょうが、賀来くんは要チェックです。

走って逃げおおせたあとに、「高杉は暴れ牛。入江は木刀。稔麿は風。そして久坂は武士」だなんて、巷間伝わる風評を何の工夫もなく持ってきてそっくりそのまま入れ込んで、「がんばろー、えいえいおー!」って、どこの部活だよ、クラスマッチだよ。「俺が見たい松下村塾四天王はこれじゃない」感、甚だしすぎて、いっそ笑えたわww