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『異国の客』 池澤夏樹

異国の客 (集英社文庫)

異国の客 (集英社文庫)

家族と共にパリの郊外、フォンテーヌブローに移住した筆者が、「異国の客」として綴るエッセイ。

持っているのは文庫版の第一刷で、おそらく5年ほど前に読んだきりだったはず。同時代性は失われつつある(原稿が書かれたのは2004年)にもかかわらず、以前よりもずっと面白く、淡く感動しながら読めた。読者である自分が少しは成長したのかなと思う。

町に立つ市場(マルシェ)のこと、子どもたちが通う小学校のこと、駐車事情、たまたま行き合った高校生のデモ行進。気候。そんな、生活者としての立脚が文章の基底になっていて、そこから、風土や文化、政治や歴史について、視野が広がり、思索が深まっていく。私、こういうのが本当に好きなんで、何かいい本あったら教えてください(笑)。

たとえば。「高速道路を車で走ればどこまででも行くことができる」大陸に住んで、筆者は「地続き」について考える。

「いくつもの国の向こうにアジアがあり、ずっとずっと先のほう、広大なシベリアの彼方でようやく海になる。そこまで地面がつながっている。しっかり線を引いて、ここからこっちは我々の領土と宣言しておかないと他人がどやどやと入ってくる。この不断の圧力が国境ということで、我々日本人はそれを知らない。」それは、「こちらが非力ならば敵の部隊がどんどん侵攻してくるということ」なのである。そこで、筆者の思索はこうつながっている。

絶対の防備はなく、永遠の防備もない。不安を解消するには相手と仲良くなるしかない。お互いに違いを最小化する努力を重ね、その努力を維持するしかない。
形ばかりの仲良しごっこや、歯止めのない妥協に実効的な意味はない。次々に生じる意見の相違、利害の対立、感情的反発を一定の範囲内に収める。そのために普段から行き来して互いを知る。ある意見が相手方から出てきたときに、その背景まで理解するよう努める。どんな場合にも突き放さない。
敵対しかねない相手を理解しようとする努力の姿勢そのものがひとつのアピールである。
平和というのはそういう手間の成果だ。

枠で囲った引用文を、それのみで提示されたら、いかにも説教めいていて肩をすくめてしまうかもしれない。でも、一人の中年男性が、子どもたちの通学の送り迎えをし(フランスではそれが普通なのだそうだ)、町の市場で生鮮食品を買って、ハードな駐車環境を生き抜きながら、そうやってモノを考えているのだと思うと、話は違ってくる。その言葉は生命力をもつし、モノを考えるのはエラい先生の難しい仕事ではなくて(まあ、実際は、池澤夏樹は文筆業の人なので当然の仕事なんだけども)、生活者の誰もが当たり前にその資格を持っているのだという感じがしてくる。

とはいえ、プロの書くものだからもちろん水準は高くて、私は、日ごろから教養の低さと海外経験の無さが自分の弱点のひとつ(ふたつだけど)だと思っている、つまり欲しいと思っているので、それらが備わった文章を読むのはすごく面白い。

それにしても現代日本の若者は海外志向が低い傾向にあるというし、教養ってむしろ持っている人の方が「鼻持ちならないインテリ」とみなされがちというか、「生活の役にも立たない知識を蓄えるより素朴なバカがマシ」みたいな風潮があるのはどうなのかなといつも思う。

「ある意見が相手方から出てきたときに、その背景まで理解するよう努める」。「平和とは手間の成果」。教養の行き先って、そういうふうに考えられるようになることだと思うんだけどな。ヘイトスピーチに走るのは、理解や考え方が、どこか片手落ちなんじゃないかな。

最終章では、イラクで武装組織に拘束されたフランスのジャーナリストと、日本人の3人(いずれも解放された)の事件、その政府や国民の反応の違いを取り上げている。この文章の執筆当時では記憶に新しい事件だったのだ。「事件を機に、日本の社会に対するぼくの見方は変わった」と筆者は書く。「あのバッシングは衝撃だった」。嫉妬など、私的領域でのみ機能するはずの感情を、インターネットはあっさりと公の領域にまで広げ、連鎖反応を呼び覚ます。「一人に向かって多くが石を投げる」。

この本は次の文章で締められている。

日本の社会の底のほうに何か巨大な負のエネルギーのようなものがわだかまっていて、拘束された三人と政府とマスコミはそれを目覚めさせた。とても不気味で、おぞましいもの、カジュアルなファシズムのようなもの。日本という閉鎖空間は深いところで病んでいるように思われる。

10年近く前に書かれた文章を今回、読み返してみて、確かに「自己責任」という言葉がこれほど日常的に用いられるようになったのはあの事件が契機だったように思う。もちろん、それまでに吹きだまっていたものがあったから、それが表層に出たということなのだろうけども。

そして「一人に向かって多くが石を投げる」現象、「カジュアルなファシズム」は、際限なく広がっているように思える。それをとどめうるのは、「地に足のついた生活」と「教養」なんじゃないかと思うのだけれど、それらは共に、あるていど、政治(国家)によって与えられる(保証される)ものでもあることを思えば、うーむ、ってなもんである。でも、政治は民衆のもののはずなんだよな。