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『インド旅行記 1 』 中谷美紀

インド旅行記〈1〉北インド編 (幻冬舎文庫)

インド旅行記〈1〉北インド編 (幻冬舎文庫)

軍師官兵衛』を見てたら危うく中谷美紀が嫌いになりそうだったんで、本棚から引っ張り出してきた。何年ぶりだろ。7,8年? 良かったー里子に出してなくて(=ブックオフに持ってってなくて)。結果、「美紀様ー」って感じの気持ちが蘇りました(笑)。

この旅行記のすごいのは、剥き出しなところである。「女優の素敵なライフスタイル本」の一環なんかじゃ、全然ない。かといって、「一般客に混じってバックパックで旅をしました」なんていう変なハードルの下げ方もしてない。

不味いと感じたものを「不味い」と書くのはもちろん、寺院巡りをしては「もともとそんなに好きじゃないし、こんなに続けて見てたら飽きた」と書き、土産物を売りつけようとする店の人を鬱陶しがり、現地のガイドさんや行きずりの人、ヨガのインストラクターについても気に入らなければ、「声が大きすぎる」「顔が近い」「根掘り葉掘り身辺について聞かれるのが本当にイヤ」「せわしなくて心の平穏がまったく得られない」など容赦なく書き記す。

ネガティブな感想まで本に収める必要はないと思うのだ、いくら「演技で勝負する」職業だからといって、やはり芸能人、イメージも大切なんだからして。「素敵なインドを味わってきました♪」って本にしたっていい。けど、そうしなかった(許すマネジメント側もすごい)。

良いホテルに泊まってトリートメントを受けては、「こんなぬるい旅をしている自分がちょっと情けないけど」と書いたり、人が少なく静かな環境に「本当にホッとする」と書いたり、むしろ、「アンタなんでインドにいるん?笑」ってツッコまれそうなほどである。でも、それが旅だと思うのだ。日常を離れ、刺激的で、ワクワクするけれど、体も心もへとへとに疲れるもの。

物乞いについて、追い払ったりもしつつ、「こうやって彼らは生きているのだ、たくましい」と思ったり、「子どものころから物乞いで食べることを覚えると働こうとしないから」と聞いて考え込んだり。ヨガに親しんでいる彼女なので、いろいろな教室に行ってみては、「精神の修行を謳いながら、施設の掃除に不可触民(カースト最下位の人々)を使うのはどうなんだろう」と書いたり、「結局は日々の生活そのものが修行で、本当の気付きとは、他者に指導されるのではなく、自分で見つけるものなのでは?」と書いたり。「何百年も前に建てられた寺院ばかりを見るよりも、人々の生活や仕事の様子を見る方がずっと面白い」とか、現地の小学校を見学し、子どもたちに歓迎されて喜びながらも、「都会での豊かな生活へのうしろめたさから、つかのま良い人のふりをしたかっただけなのかも」とか述懐したり。

見たこと、聞いたことについて、素直な感覚で、時には自分なりに考えを巡らせている様子には、「旅を本当に満喫するって、こういうことかもしれないな」と思わされる。インドの熱気や喧噪を自分も追体験できるような気もするし、「なんもかんも書いてしまっても、私の女優としての価値はまったく減じない / たとえ減じたと感じる読者がいたって私はまったくかまわない」という姿勢はかっこいいと思う。そう、こういうふうに、肚が座ってるから中谷美紀は魅力的な女優なのだ(だからあーゆー薄っぺらい賢婦人もどきの役で使うなど言語道断!)

それにしても、この本をどうやって作ったのか、ものすごく謎である。私は「2」までしか持ってないけど、確か4冊のシリーズだった気がする。

だって、40日近い旅で、見たもの・食べたもの・考えたこと等々が、毎日まいにち、克明に綴られているのだ。原稿用紙に換算して、1日あたり20枚以上はあると思う。いくら、綺麗めのホテルに泊まっているからといって、観光もして移動もしながらの旅で、メモだけでも、旅行中にそこまで書き残してゆく余裕があるだろうか? 帰国後も長い休みをとって、振り返って書いたのだろうか? 

芸能人の本だから、彼女のメモや口述をもとに、文章としてまとめるライターがいると考えてもおかしくないのだけど、毎日の、ひとつひとつの行き先での、ここまで細かい心のひだまでを、後日思い出せるものだとは、なかなか思えない。地名や寺院名の固有名詞や由来などは、後日、編集者等が確認することもできるだろうけど…。本当に謎。4冊目の巻末にでも「あとがき」があって、そのへんの種明かしがあるんですかね?