『街道をゆく 17 島原・天草の諸道』 司馬遼太郎
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1987/01
- メディア: 文庫
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それにしても島原・天草の歴史といえば、やはり「島原の乱」が一番に思い浮かぶ(というか他に知らない)のだが、古今東西の歴史に精通した司馬遼太郎の紀行文までもが、ほとんど「島原の乱」についての言及だったのには少々驚いた。いやー。ずいぶん詳しくなることができました。
キリシタンの反乱ではあるが、本質は殿様の苛政に堪えかねた農民たちの蜂起である。と、司馬は位置付けている。よく知られたイメージではある。でも、じゃあ、なぜ島原・天草ではそんなにも苛政が横行していたのか? よそより図抜けて貧しかったのか? そのあたりが随分詳しく解説されていたのは、すごく興味深かった。今回、島原は行ってないんだけど、天草をまわっていると、確かに田んぼは少なかった。熊本から三角港まで観光特急で行く道すじには、青々とした稲が広がっていたのに。しかも、島原や天草の殿様は、実際の取れ高よりも、倍も多い数字を幕府に申告していたという。なぜそんな悪行を?という疑問に答えるべく、この暴君たちの来歴まで、司馬は詳しく拾っている。何事にも、理由があるなあ。
同じく隠れキリシタンの里でありながら、島原と天草との違いについて考察している部分も、面白い。
●「徳川幕府の性格がもつ暗い面―――鎖国とキリシタン禁制―――が、島原が半島であるために陸づたいにやってきて、そこに悪液質が集中的に滞ったとも思える。」
●「同じ目にあっていながら、海上7キロの天草にあっては、どこか風穴があき、ステンドグラスから一条の光がさしこみつづけていたような印象がある。」
●「半島はなんといっても内陸という「国内」をひきずっている。その点、西の海に浮かぶ天草の島々の人には、心理的にも、実際の交通から考えても、京や江戸より唐のほうが近かったという気分がある」
●「天草は、外洋にむかってほうりだされた島々」
実際に、夏の天草の海と島々を見てみると、確かに、なんとなくちょっと日本じゃないような感覚があったんだよね。沖縄のような亜熱帯の南国とは、もちろん違う。でも、海といい、緑といい、なんだか、日本より色彩が濃く、湿度はあるんだけれども、空気が明るい感じがした。与謝野夫妻や白秋を始めとした「五足の靴」の詩人たちも、感激して詩を読みまくるはずだよなあ、と思った。
島原の乱以外では、1792年の「寛政の大変」についての記述に息をのんだ。雲仙岳の連邦のひとつ、眉山が噴火して、頂上から麓まで縦にまっぷたつになるほどに崩れ落ち、市街地を人泥で埋めつつ海へ沈んだ…という大災害である。小さな町にあって、一万人近い死者が出たと記録にあるという。
「このとき、藩はできるだけのことをしている。士分、足軽の区別なく、藩士を総動員して被災民の救助にあたらせ、夜が明けるとともに医療所をつくり、藩医以下にあたらせた。さらに領内の村医30余人をも集めて救急医療をさせ、また城外の三之沢村に仮小屋をつくって負傷者の収容所とした。罹災民の炊き出しもやった。」
江戸時代も後期になると、「大名の政治とは何か」という思想と方法が常識としていきわたっていたからだ、という。島原の乱からの150年で、日本は九州の西に至るまで、ずいぶん進歩を遂げたんだなあと思う。