『軍師官兵衛展』 @福岡市博物館


福岡市博物館ってなにげに初めてだった気がする。広々とした敷地に建っていて、快晴だったせいもあるけど、すごく気持ちの良い建物ですね。会期も相当後半だが、お客さん多かった。バスツアーっぽい団体さんもいたし(ガイドさん付きで集合写真撮ってた)、大河ドラマを見てるんだろうなーというお客さんたちも数多かった。回りながら、「ああ、宇喜多ね。陣内孝則が」とか話してるのね、連れ同士で(笑)。わたくしは入口まで夫(と息子)に車で送ってもらって、バイバーイといって一人で自由に見て回りました。

展示は、5つの章立てがされていて、「播磨に生まれて」「有岡城幽閉」「秀吉を天下人に」「如水となりて」「文雅のたしなみ」と、官兵衛の生涯をほぼ時系列になぞる形で進んでいく。以下、特に印象に残ったものを。

黒田職隆 算用状
いちばん時間をかけて見たのがこれかも。人の流れに乗らず、10分以上立ち止まって見続けてたような(笑)。私やっぱり、書状が好きだなーと今回あらためて思った。それも、実務的な書状が好き。昔の人も様々な諸事雑務をこなしながら生きてたのねーって思う。

これは「善五郎領」と呼ばれる善五郎さんが領主だろう領地の年貢の収受について、計算された書状らしい。官兵衛の父、大河で言うところの柴田恭平が小寺の家老として現役だった頃に書いたものみたいだ。「○石△斗×升・・・○○銭」といった具合で、細かく内訳が書いてある。

解説がなかったので私の見たところだけど、約85石(というのは、基本的に、85人が一年間食べてゆける米の量ってことよね?)の米の内訳で、今回、約42石の内訳が確定し、約40石はまだ未納(「御請取前」とあった)という概要かな、残りの3石は「引方=控除分」だったみたい。この中には、「御新造なへ(苗?)銭」やら、「与左衛門分」のように、苗代や役人の取り分?などが記されていた模様。内訳にはほかに「目代検注銭」のような言葉や、「借米本引」のように、前借分を返した?みたいなものも。ああ、ひとつひとつ詳しい意味が知りたい! あたりまえだけど、内訳を全部差し引きすると、合計の量に一致するのよね。電卓もないんだからね、昔の人にも計算能力が必須だったわけですよね。当時の小領主の家老クラスの書状…これは、職隆自身が本文も書いたのかしら? ほかに右筆のような職分の人がいたのかな?


黒田重隆・山脇職吉 連署奉書
重隆=官兵衛の祖父、大河でいうと竜雷太ね。誰其への書状で、「どこどこの土地について、本年貢のほかに麦の地子(租税)を徴求される、という訴えがあがってるんですけど、昔からそういう租税は存在しなかったので、今後よろしく」という内容。実務書状、訴訟案件ですなあ。


●小寺祐隆 借銭請取状
小寺祐隆、というのは小寺の殿様に仕えていたころの官兵衛のことです。これは、官兵衛が称名寺という寺に一反の土地を売って、その譲渡代のうち2斗が未納だったが(米でもらう約束だったんですかね)、今回、精算が済んだので、借状(借用書)を破棄すべきところ、「借状があるはずなんだけどちょっと見当たらないから、とりあえず、間違いなく2斗受け取ったことを一筆、記します」という手紙。官兵衛やん、大事な書類どこにやったのよ(笑)。一反って、それほど広い土地でもないし(300坪)、2斗だって少額だけど、こういうやりとりはきっちりしとかんといかんもんね。


●黒田家旗
旗を縦に3等分した上下を黒く染め、上部に永楽通宝を染め抜いたもの。永楽通宝はないものもあった。実物の旗を見ると、「こんなに大きかったんだなー」と思うし、「縫い目が手縫いだー」ってのもわかる。解説に「秀吉が定めた規則に従って」とも書いてあって、そういうのも決まってたんだなーと思う。渋くてかっこいい旗。


●刀 名物「圧切長谷部」
官兵衛が最初に信長と謁見した時にもらったというアレ。それほど長くないし、太くもない。けれど、冴え冴えとしていて、微妙な反りも美しくて、吸い寄せられるように思わずじっと見ちゃう。他にも刀の展示はいくつかあって、それぞれきっといいもので、名刀のことを「業物(わざもの)」なんていうのが、本物見たら、なんとなくピンとくるなーと思った。あと、母里太兵衛のものとされる大槍「日本号」もあったね。クソ長かった。


羽柴秀吉自筆書状
有名な、「官兵衛は秀吉の弟も同然・・・」云々書いてあるやつ。大河ドラマでは、これ見た官兵衛がアホの子のように舞い上がってましたよね。これ、追而書に書いてあるんよね。手紙の袖(右端)に始まって、本文の間にツラツラと小さい文字で書いてある。秀吉はこの追而書の面白さ、細やかさでコロリと人を落としていたそうな。大河でもちゃんとこの形式になってたのかな、なってたでしょうね。


●黒田氏家臣連署起請文
大河ドラマの官兵衛は、アホの子のようにのこのこと有岡城に出向いて幽閉されてしまったわけですが、黒田の家臣は心を一にしてその難局を乗り切ったのございます。この起請文、3種類置いてあって、ひとつは栗山善助が中心になってるやつ。これだけが「牛王の誓紙」を使ってた。裏に(や、そっちが表か?)牛王の護符が書いてあるやつね。大河『風林火山』で、宇佐美定満(今は亡き緒方拳)が謙信(ガクト)に仕えるときも、この牛王の誓紙を差し出してましたよね。ふたつめは、九郎右衛門以下(だったと思う)で、これは普通の紙に書いてあったような。三つめは、連署だけでなく、それぞれ血判を押してあった。これは、直臣でなく「与力」なので、さらに念を入れたものになったらしい。興味深い。


豊臣秀吉朱印状案
北条氏直への宣戦布告状。当時の宣戦布告状ってみんなこんなんだったんデスカ?! 墨流鮮やかに、ものすごい達筆で書き綴られ…長いっ! めちゃめちゃ長いっ! 挨拶に始まり(挨拶もちゃんとある笑)、征討のきっかけにもなった名胡桃事件の経緯に触れ・・・ってそれはいいんだけど、「自分は若いころから信長公に忠義を捧げ、信長公が本能寺で斃れたあとは光秀を討ち取り勝家を倒し…万事、正義を貫いてきた男…」だなんてくだり延々とあったんだが、こんな自分語りが当時の流儀? 源平の頃、戦場で「やあやあ我こそは○○の孫にして○○の嫡男…」みたいに名乗りを上げてたのの流れをくむやつなのか? で、最後は「そんな俺に比べておまえは天道にそむいてるから絶対天罰が下る!」って、すげー言いがかりで意味わかんなかったw とにかく天下人の勢いパネェ


●小田原陣陣立
陣立図って、実物みたの初めてで超コーフン!! 武将名と兵数とを、実際の陣形(予定図)の形で紙に書き記したもの。戦の設計図ですな!! これがもう、さすがに、天下人のおおいくさだから、ものすごい数が動員されてて、紙もものすごいでかいのね! 金ぴかの茶室とか名物名器を見るのもあれだけど、この、墨一色で書かれた陣立図に、当時の秀吉の権勢ってもんを感じたわよ。


●え、壁に、らくがき!?てギョッとしたけど、なんか人がわらわら集まってる。松坂桃李くんのサインだった。館内ではエンドレスで『軍師官兵衛』のオープニングテーマが流れていた。ちょっとねー。



それにしても、こうしてみると、30才で信長に謁見してからの彼の人生は、本当に戦の連続だったのだな、と。だからこそ、関ヶ原の戦のあと、福岡での文雅の日々にたどりついたとき晩年の心境はいかばかりのものであったろうか、と。1年やってる大河ドラマの年末の放送を見ても、そういう感慨にはとても至れそうにないなーとも思ったが(笑)。それで、なんだか、ドラマへの視聴意欲も(さらに)冷めてしまったような。出口のところでやってるショップで、官兵衛グッズを買いそうになった自分がいたが、いやいやいやと思いとどまりました(笑)。