『戦国大名』 黒田基樹 (感想 2)
- 作者: 黒田基樹
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2014/01/17
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (9件) を見る
大河ドラマ『風林火山』(2007)で、谷原章介扮する今川義元が、「我が領国の政(まつりごと)は万事首尾よくいっております」的なことを、母の寿桂尼に自信満々で言うシーンが私すごく好きで、実際今川の領国経営の手腕はすばらしかったというのが定説だけど、そういった「領国経営」の中身を大河ドラマでやってくれることは少ない(そりゃそうだろうが笑)。
たびたび大規模な戦争ができるぐらいだから、それなりの国力があったはずなのだ。そのためには、ある程度の社会システムが整っているはずだ。けれど、戦争というのは、そういった社会システムを木端微塵に壊してしまうものでもあろう。このあたり、どうなっているのか。実務家としての私(笑)は、かねてより疑問に思っていた。
たとえば、北条氏の税制である。
昔の税といえば「年貢」、つまり田んぼで穫れたお米を納入する形が思い浮かぶが、それだけではない。(カッコ内は賦課対象)
- 反銭(田)・・・1反につき40文
- 懸銭(畠)・・・貫高6パーセント
- 棟別銭(屋敷)・・・1間(軒)につき35文
- 城米銭(村高?)・・・城に備蓄していく兵糧米の納入資金にあてられる。詳細不明
- 大普請役(村高)・・・城の構築や修築のための労働力を徴発するもの。20貫文につき1人・年10日
- 陣夫役(村高)・・・戦陣のたびごとに、人や馬を徴発するもの。村高40貫文につき1人、1陣につき年10-20日
所得税もあれば住民税もある、もちろん徴兵制もある、って感じか。税がいろいろあるって、民百姓にとってはもちろん厳しいですが、それを正しく管理するノウハウも必要だったわけで。
年貢の数量を確定するための検地といえば、秀吉による「太閤検地」が有名で、画期的なものであると思われがちだが、どの戦国大名も、もちろん検地は行っていた。年貢の割合については「五公五民」あるいは「四公六民」なんて簡易的な言い方もあるけれど、戦国時代であっても、実際はそんな簡単なもんじゃない。
反銭(田んぼに係る年貢)・懸銭(畠に係る年貢)の場合、北条氏から派遣された「検地奉行」が村の案内を受けて実測する。田畑の面積を集計し、基準数値を乗じて、年貢高を確定するというのがそのあらましである。しかし実際には「引方」と呼ばれる控除分等も、種々細かく設定されていた。
この控除分=「引方」には、以下のようなものがある。
- 「公事免」・・・北条氏が賦課する夫役(労働税)への反対給付(日当のようなもの)
- 「代官給」・・・直轄領における代官への給分
- 「小代官給・名主給」・・・同じく、代官等、年貢の取り立てを担う役人への給分
- 「堤免」・・・灌漑施設の維持費
- 「寺社免」・・・寺社管理費・維持費
この「引方」は、領国一律の基準が設けられているものもあれば、村によって異なる項目があったり、同じ項目であっても額が異なる場合もある。それらは、大名や領主側が、村との協議によって決定されたと推測されている。「引方」の内容の決定は、村の交渉力、政治力によって大きく左右されていたのだ。
また、風害・干ばつ・水害といった災害による不作耕地の発生があれば、村側は大名・領主側に年貢減免要求を出すこともあった。申請を受けると、大名は「検見」と呼ばれる作柄調査を行い、損免分を決定して、やはり年貢高から控除した。
検地や検見の結果については、あらかじめ村側から、さだめられた年貢高の納入を誓約する旨が記された「請負之一札」「御請」という誓約書が提出され、それを受けて、大名・領主側から「検地書出」という書類が交付されるのが原則になっていたが、実際は、大名・領主側で一方的に決めるのではなく、その過程では必ず村側の同意を得て成立された。一種の社会的契約だったわけである。
よって、両者が意見の一致をみなければ、年貢高の確定は遅れることもあった。もちろん、基本的に強いのは大名・領主側である。村側が従わなければ、軍事力をもって攻撃の対象にもできるし、成敗したり、耕地から追放したりすることもできるのだから。しかし、無作為にそのような強権をふるっていれば、やがて村は疲弊し、百姓不足におちいる。すると、徴税の不足は、国力の低下を招く。それでは困るから、実体としては、ぎりぎりのところまで交渉は続き、妥協が計られていたのだという。
滞納についても同様だった。
年貢は春(耕作開始時期)に決定され、秋(収穫時期)に「配符」という納税通知書が出される。年貢の納入は数度に分けて行われ、その都度、領主側から村に対して「請取」と呼ばれる領収書が出される。「請取」は蓄積され、「請取日記」と称され、年末に領主側において点検が行われ、皆済されていれば、「皆済状」が出された(こういう実務処理の内容を読んでいるとワクワクするのである!)。
不足分があれば「未進」として処理され、代官や、領主が立て替え納入して、利息を付すという貸付の形がとられていた。それでも未進が続けば、耕地の取り上げや斬首などの厳しい処置もあったが、百姓の不足につながるため、貸付処理による対応が主要になっていた。(感想まだまだ続きますw)