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「安藤美姫 ラストダンスへの200日」を見た

moonshine

我が家のテレビには映らないBSでの放送だったんだけど、友だちの好意で録画を焼いてもらいました。カオリちゃんありがとう〜!

2シーズンにわたる休養の終盤に出産して、半年後から競技会に復帰した安藤美姫。彼女の動向をずっと気にして、応援してきたけど、この番組で映像を見て、「娘に胸を張れるように」と説明したその挑戦の意味が、初めてわかった気がする。

4月に出産したあとの夏。まだコーチも決まっていない。深夜、人のいなくなったリンクでの孤独な練習。既に体はかなり絞れていた。それでも、ジャンプは2回転を着地するのがやっと。繰り返し、繰り返し、転倒する姿に、涙が出て、同時に、思い出した。

自分が出産した後、母になるって多くを失うことだからというブログ記事を書いたことがある。今思えば、まだまだ産後のホルモン不安定な状態で書いたもので、ナーバスになってんなーとも思うんだけど。母になったことでの喪失感。全員が感じるものではないかもしれないけど、私はあったなあ。あれは、なにかとても暴力的なものだった。

かつて簡単にできていたことが、まったくできなくなっている。ジャンプのようなスケートの技術に関していえば、それは妊娠出産による筋肉の減少や筋力の低下によるもので、一時的な現象でしかないのかもしれない。客観的には、たとえ安藤美姫が目指した短期目標に間に合わないとしても、「じっくり頑張れば必ずまた戻るよ」と確信をもってアドバイスできるものかも、しれなかった。

けれど現実に、挑んでは転び、挑んでは転んで、氷に体を叩きつけられる痛みは、「子どもを得たことによる喪失」を、幾度も幾度も、自分の体に思い知らせることだ。言葉を失うような残酷な光景だった。その残酷さを、彼女は自分に課し、甘んじて受けていた。

ラストシーズンと決めて臨んだ半年間。最終的な成績は全日本7位で、復帰会見で掲げたオリンピック出場という目標はかなわなかった。その過程や結果に対して、「結局は無謀な挑戦だったのだ」「自己満足でしかない」「生半可な努力で叶う目標じゃない」という人もたくさんいた。

私はそうは思わない。もともと思ってなかったけど、練習する姿を見て心から思った、「あれは前向きな、しかも、母になった彼女に必要な挑戦だったのだ」と。ついでに言うなら「彼女の人生だ、自己満足で何が悪い」とも思う。

子どもを産めば、母親が制約を受けるのは当たり前という見方がある。ホイホイ外に出かけられないのも、授乳や寝かしつけによる睡眠不足も当たり前。しょうがないでしょう、作ったのも、産むのを決めたのも自分なんだから。いいじゃない、こんなにかわいい宝物を得られたんだから。

わかっている。それは正論だし、産む前から、失うものがあると理屈ではわかっているのだ、みんな。実際に、多くの新米の母親はどうにかしてそれに耐えている。けれど、澱のように溜まる疲れやストレスによって、子どもを・あるいは自分を大事にできなくなることもあるだろう。喪失感の裏返しで、得たことを過剰に肯定して、子どもに過剰な期待や愛情をかけすぎることもあるだろう。

加えて、安藤美姫の場合、未婚の母になった。有名人であることも考えれば、出産に付随する重荷ははかりしれない。

彼女はそこから逃げなかった。世間に公表して自分が目指すもの、守りたいものをハッキリとさせ、強化選手の指定もなく、コーチもいないまま、練習を始めた。遠征があれば娘も必ず伴った。その過程では報道が過熱し激しい批判に晒され、懊悩し、弱音も吐いた。「日本人は選手の浮き沈みを許さない」。

かつて簡単だったジャンプで何度も何度も転ぶのは、「産んだことで失ったもの」を突きつけられるに等しい。そのことと正面から向き合い続けた。一方で、年を重ねることで身につけていたもの、出産しても失わなかったものも確実にあった。かつて安藤が4回転サルコウを決めたときと同じく「火の鳥」に振付を担当したリー・アン・ミラーは「15歳のときとは全然違う。彼女は成熟した大人のスケーター」と言う。わずかな腕の動きやターン、視線の使い方、ステップの身のこなしなど、ひとつひとつが見る者の目を惹きつける。それは若い選手が一朝一夕に得られるものではない。

そして、秋になってコーチを引き受けたボルター・リッツォは「彼女に必要なのは試合の4分間に集中しきるための精神面のサポート。技術的には教えることがないほどのすばらしい選手だから」としながらも、笑う。「私が激しい練習で氷上でへとへとに疲れさせても、娘を抱いた瞬間、彼女には新しいエネルギーが湧いてくる。娘がもうひとりのコーチみたいなものだね。子どもがいることがマイナスでなどあるはずはない」。

失っただけではない、変わらず持っているものがあること。そして、子どもの存在は、これまでに得られるべくもない、かけがえのないものであること。言葉で言うのは簡単なその真実を、復帰して競技に取り組むことで、身をもって感じたんじゃないかと思う。それは母になった自分を肯定し、前へ進むために必要なステップだったんじゃないかと思う。

産むことを決意したときから、良き母たるべし。それは正論であり理想だが、人間の体と心はそう簡単じゃない。出産後、想像を超える喪失感に悩まされる母親は少なくないはずだ。安藤美姫は復帰への道を歩むことで、その暴風雨の中に、みずから飛び込んでいったように見える。そうすることが、乗り越えるためのもっとも近道であると、本能的に知っていたんじゃないかと思う。無意識かもしれないが。

少女のころからマスコミに追い立てられ、口さがないことを言われ続ける生活に苦悩してきた。有名になりたくてスケートをしてきたわけじゃない。「けれど結局はスケートしかやってきてないから」と彼女は言う。「でも、続けてきたことは唯一の誇り。世界でも戦ってきた。胸を張りたい。娘にも伝えたい」。

世間では、安藤美姫は、精神的に脆く、浮き沈みの多い不安定なスケーターだと認識されていたかもしれない。でも、本当は、違うんじゃないか。彼女は、「自分がどう生きたいか」にいつも意識的で、「いま自分に必要なこと」を悟る鋭敏さがあり、さらに、そのために苦しいことに飛び込み耐えられる力をもっている。誰がなんといおうと、衆目に晒されながら長年ひとつのことに取り組んできた経験は彼女のもので、その経験から得られた強さが、彼女が常に自分らしく生きるための助けになっている。

子どもを産む選択も、産んでからの復帰も、よほど強い人でなければできないものだった。それは徹頭徹尾、前向きな道のりだったと、あらためて思う。

当該番組を見ての感想、という本題からは逸れるが、その道のりの過程で、たとえば出産の公表の方法やマスコミとの接し方など、枝葉末節にケチをつける気にはまったくなれない。これまでにも何度か書いたけど、いくらスケーターとしてはベテランの類に入るとはいえ、20代の若い女性、しかも母親になったばかりの不安定な心身をもつ女性に、すべてにおいてご立派で瑕疵のない挙動を求める世間様のほうがどうかしてると思う。

安藤美姫という人はこれからも、世間にいろんな波紋を呼ぶんだろうなと思う。嘘がつけない正直な人。彼女を嫌い、理解できないという人もたくさんいる。それでいい。私も、彼女が好きだけど、彼女のファンなのか?と言われると答えに窮する。ただ、とにかく気になる人。応援もしている。彼女は、苦悩するとわかっていても、マイノリティの立場から声を上げ続ける性分の人。声を上げる人がいればこそ、世の中はより良い方向を模索して変わっていくものだと思う。少しずつでしかなくても。これまでもそうやって、世界は少しずつ変わってきたんだと思う。

いや、やっぱりファンかもな。氷上の彼女は本当に素敵なスケーターだし、それに、リッツォコーチと食事をしているときの様子はとても魅力的だった。ニコニコ談笑してたわけじゃない。調子が悪くて、焦っている状態での会話なのにもかかわらず、なお、惹きつけられるものがあった。この人、モテるんだろうなー、と、しみじみ思ったよ。

そして、有名人でありながら未婚の母になったことについて眉間に皺を寄せる輩には、エッジを思いきりアウトサイドで踏み切ったトリプルルッツでアタックしてやりたい(できないけど)。子どもを作るなんて、どんな形であれ、つきつめれば親のエゴであり、それも含めて種の本能である、というのは朝ドラ『ごちそうさん』で描かれたとおりだ。

主人公の娘、ふ久は、出征して死んでしまうかもしれないとわかっていながら、意図的に子どもを作った。そして大阪大空襲の夜に出産した。父親がないことを好奇の目で見られるとわかっていながら生を受けた安藤美姫の子どもは不幸か? 安藤美姫はひどい母なのか? では、食べ物もろくになく、いつ空襲があるか知れない戦争中に子どもをつくっていた大人たち、今も貧困や戦乱の中で子どもをつくる大人たちは罪深いのか?産み落とされた子どもたちはかわいそうなのか? 安全で盤石なセックスなんて幻でしかない。自然界はいつだって不平等で、誰しも一寸先は闇だ。その中で続いてきたのが人類なんだ。