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『世に棲む日々』(一・二) 司馬遼太郎

世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)

世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)

初読。司馬遼太郎の長編小説を読むのは久しぶりだったんだけど、やっぱりむちゃくちゃ面白いな! 寝る時間も忘れて…って定型句を遣いそうになったけど、あ、それはなかったわww ソチを挟んでたのもあって、4冊読み切るのに1か月くらいかかったんだった。だが、それがいい

大学生ぐらいだったら、その場の勢いで(って、こういうときに使う表現じゃなかろうけど)三日三晩ぐらいで一気に読んじゃってたんだろうし、そういう「感性にまかせた読書」ができるのは若さの特権なんだけど、中年には中年の読書の面白さがあるのだよなあと、今回つくづく思った。それこそ自分は「竜馬がゆく」を大学生のときに読んだんだけど、そのころは竜馬とか、半平太とか、あるいは竜馬をめぐる女たちとか、いわゆる「ヒーロー格、ヒロイン格」のキャラクターを、また、ドラマチックな場面を中心に楽しんでいたんだけど、今は、隅々まで舐めつくすように味わえるようになった気がする。

30数年生きてきて、隅々まで舐めつくしたくなる幕末小説がそれほど多くないものだとも知っているわけで、司馬史観がどんなに批判されようと、汲めども尽きぬ泉のような知識や、いろんなところから球が飛んでくるような変幻自在の語り口、そしてきらきらと光芒を放つ文章の数々に、くらくらと目眩すら覚えながら、日々ちょこちょこと読んでいたのだった。幸せな晩酌気分で。

この小説の前半の主人公は吉田松陰であるが、私ごと、松陰と聞いて思い出すのは新入社員のころの上司である。40代半ばを前に○○営業部長をつとめていた彼は出世頭的存在で、松陰を尊敬していると公言していた。へぇーサラリーマンのおじさんって本当に歴史上の人物を尊敬してたりするんだなあ、と妙に感心しつつ、どうもヘンな感じもあった。一般的に松陰のイメージといえば松下村塾で多くの門人を育て、最期は安政の大獄で刑死、いわば「志に殉じた」というものだろうと思われ、そのあたりは、まあサラリーマン的にリスペクトできるのかもしれんけど、やっぱりどうにも「奇人」のイメージがつきまとうのも事実だと思うのだ。当該部長は「司馬遼太郎の『世に棲む日々』が大好きで松陰先生を心の師と慕っている」と酒を飲むたびに言う。私はその当時、まだ未読だったけれど、他の司馬作品を読んでいても、司馬が松陰を一種の奇人として描いていないはずはない、という確信があり、まるで本当に無邪気な子どものように「松陰先生、松陰先生が」と繰り返しているエラい部長さんが、なんだか不思議に思えていたものだった。

それから十数年、やっとこさ読んだ「世に棲む日々」。うん、やっぱり、松陰は奇人だよね!! で、読みながらどうしても件の部長のことを思い出し(ちなみに彼は、私が入社したわずか3か月後に私の部署から移動になり、1年あまり後には退職してしまった…)、今やあのころの感覚を表わすのにしっくりくる語があることに気づいたのだった。そう、「この人、ちょっと“中二病”っぽくない?」て思ってたのだ。

でも松陰はホントかわいい。司馬はあとがきで、戦前は皇国史観の広告塔のような人物だったから嫌いだった、というようなことを書いていて、だからこそ、自分の手でこんなふうに「かわいらしい狂人」として描いたのかなあと思うのだが、この小説を読んで、かつての部長よろしく、「これこそが吉田松陰」と子どものように慕う読者が、今度は大量に生まれたんだろうね。叔父さんとか、各地の学者とか、このかわいい狂人を育てた風変わりな人々の描写も面白い。

司馬遼太郎の小説を「おじさんが読むもの」というイメージで捉えている人は多いと思うし、まあそうなのかもしれんけど、中身は企業小説でも、自己啓発小説でもなく、青春小説・冒険小説だよなあと思う。そんで、ヒロイックに酔わせるところと、パッと突き放すところとの、緩急、手綱さばきが、やっぱり天下一品なんだなあ。道半ばで無念の死を迎えるときの乾いた筆致はとても司馬らしい。