What a wonderful world!って笑いたい (3・完)

・・・と言いつつ、自分の周辺、半径何メートルかの狭い世界で偏狭になりそうなことはある。たとえば私は「○○(子どもの名前)ママ」系のHNを使っているママさんを見ると、その瞬間、ちょっと、引く。TwitterやLINEのアイコンを、子どもの写真にしてる人にも、第一印象では、ちょっと、「うーん」と思う。ある種の「育児ブログ」も苦手。まあ、このブログだって、見ようによっては立派にその類なのかもしれないけど。

Twitterで「○○ママ」系のHN見るたびに、「 「藤原道綱母かよ!」って思う」ってツイートが秀逸で笑っちゃったんだけども、これって、なかなかに深い問題を孕んでいるようには思う。藤原道綱母(『蜻蛉日記』)にせよ、菅原孝標女(『更級日記』)にしろ、息子や父の名前しか残っていない。紫式部清少納言だって、通称だ。「古代や中世では、皇族でもない限り女性の本名は史料に残りにくいものだった」と聞けば、特段フェミニストでなくとも、現代の感覚では「なんかイヤだな、変だな」って感じる人は多いと思う。けれど一方で、現代でも自分を「○○ちゃんのママ」であると称し、「誰かのママ」として自己の存在を表明し満足している女性は少なくない。

私が「○○ママ」を苦手なのも、そういうところだ。「○○ママ」や、子どもの写真をアイコンにしている人は、「○○ママ(○○パパ)」ではない人(たとえば子どものいない人)の存在を始めから考慮していない気がする。「この世界“だけ”の住人です」という線がクッキリ引かれているというか。思いきり「サクちゃんママ」であるはずの私なのに、なぜか「私なんてお呼びでないのね…」なんて思っちゃう。好きな芸能人とか、アニメのキャラとかをアイコンにしているのはあまり気にならないのに、子どもの写真だと引いてしまうこの気持ちは、考察すれば確かな理由があると思うのだが、それはまあ、今は、おいとくとして。

まあ、「○○ママ」にとっては、幼子をもちながら、大河とかスポーツとかドラマとかうつつを抜かし、酔っぱらうまでお酒を飲んだりしてる私のような母親が、理解しがたい存在なのだろうな、とも思う。つまりお互い様なんだよな、と。

無理に苦手な人と親しく付き合う必要はない。私は博愛主義者でもなんでもない。でも、「○○ママ」なるものを忌避し、時には否定すらしたくなるこの心が、劣等感にせよ、劣等感の裏返しである優越感にせよ、とにかく「自分との差異を感じること」が源にあるのだろうと思うとき、世の中に多様性への寛容を求めることの難しさを思う。やっぱり、自分と違うものに対して、人(というか私のような小人物)は、そうそう寛容にはなれない。むしろナーバスになるものなのだ。

といっても、育児サークルみたいな場所に行くと、私とはかなり属性が違うなようなお母さん方とも別に抵抗なく話せるし、楽しいなあと思うんだよね。十何人もいれば、「○○ママ」なHNでブログやってる人も何人かはいるだろうし、同様に、大河オタクが一人ぐらい紛れ込んでても不思議はないよな、とも思う(笑)。実際に顔が見えて話もできれば、「○○ママ」という性質だって(大河オタという性質だって笑)、その人を構成する要素の一つでしかないんだな、と思えて、すがすがしい気持ちになる。

部活とか、バイト先とか、会社とか。思えば昔から、全然共通点のないようなバラッバラの人々がわらわらと集まって、ひとつところで活動している、という場所が、私は好きだった。そこではちょくちょく軋轢も起こるが、なんとなく、「しょーがねーな」って感じで共存しあっている、自分もまたその中にいる、という。同じクラスにいても絶対友だちにならないような人と、ふいに親しく話して、その素顔が覗けたり、あまりにも新鮮な視点が得られたりする。似たような人たちばかりが集まって、仲良く、ぬるくやっているのより、よっぽど面白いのだ。理念ではなく、ごく自然に、しかも具体的に多様性を肯定できる。

自分と違うから、否定したくなる。

自分と違うことが、面白いと思える。

両者の間に横たわるもの。前者は自分の家にいて窓から外の様子を見ている。後者は家からすっかり出てしまっている。そんな感じかな。外の空気が意外に心地よかったりするんだよね。風にあたりたい。